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도쿄1934공연

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【東京1934公演】 17.公演1部(5) 諦念 崔承喜の東京デビュー公演の5番目はあきらめ(諦念)>だった。 プログラムにはこの二つの作品が次のように述べられていた。 5. あきらめ…(振付···石井漠)··· グリーグ曲、崔承喜十年前の作。諦めの氣持を全然象徵的に表現したものであるが、今度崔承喜によつて再生させられる事は嬉しい(漠)  「あきらめ」は石井漠の作品であり、師匠の指導に感謝の表示として崔承喜がデビュー公演で上演することを選択した作品だ。 石井漠は『私の顔(1940)』で「18年間で二百数十曲の作品を作った」と述べている。 200曲を超える師匠の作品の中で、崔承喜はなぜそれほど広く知られていなかったあきらめ>を選んだのだろうか? 石井漠はこの作品を「諦めの氣持を全然象徵的に表現したもの」と説明したが、新しく出発する崔承喜には「あきらめ」は似合わず、師匠の初期作品を選択したのもそれほど自然に見えなかった。  しかし「10年..
[도쿄1934공연] 17. 공연1부(5) 체념 최승희 도쿄 데뷔공연의 1부 5번째 연목은 체념(諦念, あきらめ)>이었다. 프로그램에는 이 두 작품이 다음과 같이 서술되어 있었다. 5. 체념(あきらめ)... (안무...이시이 바쿠)... 그리그 곡, 최승희10년 전의 작품. 체념의 기분을 완전히 상징적으로 표현한 것이지만, 이번에 최승희에 의해 재연되는 것이 기쁘다. (이시이 바쿠)  체념>은 이시이 바쿠의 작품이었고, 스승의 지도에 대한 감사의 표시로 최승희가 데뷔 공연에서 상연하기로 선택한 작품이다. 이시이 바쿠는 나의 얼굴(1940)>에서 “18년 동안 2백 수십곡의 작품을 만들었다”고 서술했다. 2백곡이 넘는 스승의 작품 중에서 최승희는 어째서 그리 널리 알려지지도 않았던 체념>을 선택했던 것일까? 이시이 바쿠는 이 작품을 “체념의 기분을 상징..
【東京1934公演】 16.公演1部(4) <生命の踊り> 崔承喜のデビュー公演1部の4番目は生命の踊り>だ。 プログラムにはこの作品が次のように紹介されている。 4. 生命の踊り。 寒水多久茂、法村康二、山本綠、大野兵作、柴野久子、山崎龍子、甲斐富士子、金敏子 (惱み多い人生... その樣々な姿を一つの群舞にまとめてみた。)  生命の踊り>はタイトルと上演ダンサー8人の名前、そして「苦悩多い人生の多様な姿」という説明の他には他の説明がない。 甚だしくはどんな音楽を背景に使用したのかも明らかになっていない。 (無音楽舞踊作品だった可能性もなくはない。) 崔承喜の『生命の踊り』は、この公演が初演ではないようだ。 1931年5月1日、京城の団成寺で開かれた崔承喜の「第3回新作発表会」で「生、躍動」という作品が発表されたためだ。  「生命の踊り(1934)」と「生、躍動(1931)」は群舞という点で共通している。 1931年の『生、躍動』は崔承喜と數..
【東京1934公演】 15.公演1部(3) <廢墟の趾> 『廢墟の趾(1934)』は崔承喜の東京デビュー公演で初演された作品だ。 「廢墟の趾」の背景音楽はモデスト·ムソログスキー(Модест Птрович Му、1839-1881)のピアノ組曲「展覧会の絵(1886)」の10作品のうち、2番目の作品「古城(Vecchio Castello、1874)」である。  「展覧会の絵」は画家でムソログスキーの友人だったビクトル·ハルトマン(Viktor Hartmann、1834-1873)が死亡すると、彼の最後の展示会にかかった絵を素材に作曲した作品だ。 ムソログスキーが作曲する時(1874年6月)にはピアノ組曲として作曲されたが出版されず、1886年ニコライ·リムスキー·コルサコフ(Nikolay Rimsky-Korsakov)が初めて出版した。 1922年、モリス·ラヴェル(Maurice Ravel, 1875-1937)が管弦楽曲に編..
[도쿄1934공연] 15. 공연1부(3) <폐허의 터> 폐허의 터(廢墟の趾, 1934)>은 최승희의 도쿄 데뷔공연에서 초연된 작품이다. 폐허의 흔적>의 배경 음악은 모데스트 무소로그스키(Модест Петрович Мусоргский, 1839-1881)의 피아노 모음곡 전람회의 그림(1886)>의 10개 작품 중에서 두 번째 작품 고성(Vecchio Castello, 1874)>이다.  전람회의 그림>은 화가이자 무소로그스키의 친구였던 빅토르 하르트만(Viktor Hartmann, 1834-1873)이 사망하자, 그의 마지막 전시회에 걸렸던 그림을 소재로 작곡한 작품이다. 무소로그스키가 작곡할 때(1874년 6월)에는 피아노 모음곡으로 작곡되었지만 출판되지 않았고, 1886년 니콜라이 림스키코르사코프(Nikolay Rimsky-Korsakov)가 처음으로 ..
【東京1934公演】14.公演1部(2)<小供の世界> 崔承喜のデビュー公演には小供の世界>という演目が2つ含まれている。 1部と3部に2番目と15番目の演目である。 それぞれの演目は2つずつの作品が含まれている。  1部の小供の世界1>には戱れ>とヨチヨチ踊る>、2部の小供の世界2>には新しい帽子>と僕達は>が含まれている。 小供の世界>は童踊、つまり子供の踊りだ。 子供たちの姿を舞踊化したのだ。 日本の初期の新舞踊家たち、特に石井漠は子供の舞踊に深い関心を持った。  1926年3月、石井舞踊団が満州-朝鮮巡回公演を行った時も、子供舞踊『今晩は』と『わんぱく小僧』が演目に含まれていた。 『今晩は』は松浦旅人(1901-1927)が、『わんぱく小僧』は石井英子(1911-1936)が上演した。  石井漠が子ども舞踊に関心を持ち、創作努力を傾けるようになったのは、彼の友人で同僚の山田耕莋(1886-1965)の影響だ。 1914年にドイツ留学..
[도쿄1934공연] 14. 공연1부(2) <어린이의 세계> 최승희 데뷔공연에는 어린이의 세계(小供の世界)>라는 연목이 2개 포함되어 있다. 1부와 3부에 2번째와 15번째 연목이다. 각각의 연목은 2개씩의 작품이 포함되어 있다.  1부의 어린이의 세계1>에는 놀다(戱れ)>와 아장아장 춤추다(ヨチヨチ踊る)>, 2부의 어린이의 세계2>에는 새모자(新しい帽子)>와 저희는(僕達は)>이 포함되어 있다. 어린이의 세계>는 동용(童踊), 즉 어린이 춤이다. 어린이들의 모습을 무용화한 것이다. 일본의 초기 신무용가들, 특히 이시이 바쿠는 어린이 무용에 깊은 관심을 가졌다.  1926년 3월 이시이무용단이 만주-조선 순회공연을 할 때도 어린이 무용 오늘밤은(今晩は)>과 개구쟁이(わんぱく小僧)>가 연목에 포함되어 있었다. 오늘밤은>은 마츠우라 다비토(松浦旅人, 1901-1927)..
【東京1934公演】 13.公演1部(1) <荒野を行く(1931)> 崔承喜のデビュー公演は3部に分かれていた。 16の演目の19の作品を発表するには、3部構成が避けられなかっただろう。 しかも、日本の観客に朝鮮舞踊5演目をまとめて発表することにしたため、1部現代舞踊、2部朝鮮舞踊、3部現代舞踊の3段階構成が理想的だっただろう。  第1部の現代舞踊は5作品で構成されているが、最初の作品が『荒野を行く』(1931)だ。 この作品はこのデビュー公演で初演されたものではない。 1934年9月13日付の『朝鮮日報』と日本の雑誌『映画と芸能』1934年7月号にもこの作品の写真が掲載されているからだ。  また、朝鮮の『新女性』1934年5月号には「荒野に立って」という作品の写真が掲載された。 衣装に若干の差があるが、『荒野を行く』のような作品であることがわかる。 この記事はまた、「荒野に立って」が1934年5月12日「石井舞踊団春公演(日比谷公会堂)」で再発表される..