崔承喜のデビュー公演には<小供の世界>という演目が2つ含まれている。 1部と3部に2番目と15番目の演目である。 それぞれの演目は2つずつの作品が含まれている。
1部の<小供の世界1>には<戱れ>と<ヨチヨチ踊る>、2部の<小供の世界2>には<新しい帽子>と<僕達は>が含まれている。
<小供の世界>は童踊、つまり子供の踊りだ。 子供たちの姿を舞踊化したのだ。 日本の初期の新舞踊家たち、特に石井漠は子供の舞踊に深い関心を持った。
1926年3月、石井舞踊団が満州-朝鮮巡回公演を行った時も、子供舞踊『今晩は』と『わんぱく小僧』が演目に含まれていた。 『今晩は』は松浦旅人(1901-1927)が、『わんぱく小僧』は石井英子(1911-1936)が上演した。
石井漠が子ども舞踊に関心を持ち、創作努力を傾けるようになったのは、彼の友人で同僚の山田耕莋(1886-1965)の影響だ。 1914年にドイツ留学から帰ってきた山田耕莋はしばらく岩崎小弥太の後援で東京フィルハーモニー交響楽団を指揮したが、1915年5月に後援が途絶え、妻の永井郁子と離婚して試練を迎えた。 この時期に山田耕莋は音楽日記を書きながら創作を続け、石井漠と共に舞踊詩作品を振付した。
山田耕莋はこの時期に一緒に住んでいた姉の2人の子供と一緒に多くの時間を過ごしたが、この経験を通じて1916年7月に子供を素材にしたピアノ小品10曲を作曲、<子供たちとおじさん(1917)>というピアノ曲集を出版した。
1916年11月に村上喜久夫(1893-1982)と結婚し、1917年4月に長女の美沙が誕生し、子どもに対する山田耕作の愛情と関心はさらに高まり、子どもを素材にしたり、子どものための作品が多くなった。
その後、石井漠は山田耕莋の子供音楽をBGMに「子供舞踊(童踊)」を振り付け始めた。 崔承喜が観覧した石井舞踊団の京城公演で上演された『今晩は』の音楽も山田耕莋の歌だった。
東京留学時代、師匠の石井漠の影響を強く受けた崔承喜も子供舞踊を重要視し、京城時代(1929.8.-1933.3)の創作活動でも子供舞踊が少なからず創作され発表された。
1930年2月1~2月、京城公会堂の第1回発表会で発表した「戱弄」、1930年10~21日に団成寺で開かれた「新作舞踊2回公演」で発表した「この兵隊は不細工だ」、1931年5月1日に団成寺で開かれた「第3回新作公演崔承喜舞踊会」で発表した「私は?」>と<これからこれから>、1932年4月28日に団成寺で開かれた<第5回新作発表会>で発表した<幼い友>と<子守唄>などがそれだ。
特に東京デビュー公演で発表した「戱れ」と「僕達は」は1930年の「戱弄」と1931年の「私は?」を改作した作品である可能性が高い。
例えば「私は?(1931)」は京城時代に崔承喜の弟子趙英淑(チョ·ヨンスク)の独舞として発表されたが、この作品の題名が1934年に「僕達は(1934)」になったのは9人が踊る群舞に改作されたためだろう。 反面、「戱弄(1930)」は5人の群舞だった反面、「戱れ(1934)」は石井静子と谷百合子の2重舞に改編された。
京城時代や東京時代の崔承喜の子供舞踊は自身が振り付けしたものではあるが、同僚や弟子たちが発表するようにしたのが特徴だ。
1935年10月22日、東京日比谷公会堂で開かれた「新作舞踊発表会」でも発表された「子供の世界3」も同じだった。 「放課後」は針田陽の独舞で発表し、「踊りましせう」は窮田激と針田陽のデュエットで発表された。
また、1935年10月26日、神戸楠公前の八千代座公演で発表された「幼き日」も、泉陽子と森川慶子によって発表された。つまり、児童舞踊はすべて崔承喜の弟子たちに任せられたのだ。(jc, 2024/8/19)
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