최승희 이야기 (78) 썸네일형 리스트형 [대금강산보] 28. 『大金剛山の譜』はカンヌ映画祭に出品されたのだろうか。 崔承喜の舞踊映画『大金剛山の譜』に対する調査を続けながら、もしかしたらこの映画がカンヌ映画祭に出品されたのかも知れないという気がした。 もちろん、そのような主張を盛り込んだ文献や証言に接したことはない。 しかし、調査を進めば進めるほど、その考えがなくならなかったのは、次のような二つの情況のためだ。 まず、崔承喜はフランスの新しい映画祭が組織されていた時期にフランスに滞在し、1938年に公開された劇映画『大金剛山の譜』のフィルムを手中に持っていた。 そのうえ、彼は朝鮮と日本を除く世界どの地域でも、この映画を上映する権利を保有していた。 崔承喜はパリ試写会を通じて『大金剛山の譜』をヨーロッパで上映したことがある。 もしかしたらこの試写会はヨーロッパ上映を証明するための行事として組織されたかもしれない。 これにより、『大金剛山の譜』はフランスで組織される新しい映画祭に出品できる基本的な条件を.. [대금강산보] 27. 前夜祭を終えて取り消された第1回カンヌ映画祭 米国がフランスの新しい映画祭を支援したのは、イタリアに対する政治的抗議であっただけでなく、経済的対決でもあった。 イタリアがベネチア映画祭を口実にハリウッド映画の輸入を独占しようとしたためだ。 イタリアのハリウッド映画の独占を防ぐためには、米国映画産業が欧州市場に進出する新しい窓口を作らなければならなかった。 フランスもイタリアを抜いてハリウッド映画を輸入する機会を掴みたかった。 ハリウッド映画の欧州販路をめぐり、米国とフランスの利害が一致したのだ。 新しい映画祭の創設が呼びかけられるようになったのは、映画宗主国としてのフランス人の自負心も一役買った。 フランス人たちが映画宗主国を自任したのはリュミエール兄弟のためだ。 オーギュスト·リュミエール(Auguste Marie Louis Nicholas Lumirere, 1862-1954)とルイ·ジャン·リュミエール(Louis .. [대금강산보] 26. ファシズムに汚染された「ヴェネツィア映画祭」と「カンヌ映画祭」の登場 カンヌ映画祭(1939)はヴェネツィア映画祭(1932)、ベルリン映画祭(1951)とともに欧州の3大映画祭に挙げられるが、1938年までも米国のアカデミー(1929)を除けば国際映画祭ではヴェネツィア映画祭が唯一だった。 1932年のヴェネツィアビエンナーレの一部として始まった映画祭は、1933年を越えて1934年から例年行事に転換され、競争部門が導入され、1938年に6回目を迎えた。 1937年の第5回大会ではフランスのジャン·ルノアール(Jean Renoir)監督の『巨大な幻想(La Grande Illusion, 1937)』が「最高芸術賞(Prixdumeilleurensemble artistique)」を受賞した。 『巨大な幻想』は第1次世界大戦後に勃興した極右民族主義とファシズムを警戒し、差し迫ったもう一つの戦争を警告する反戦平和映画だった。 この映画はフランスだ.. [대금강산보] 25. 同時上映の『東京』と『雪の呼訴』 「フランコ·ヤポン委員会」が開催した日本映画試写会では、崔承喜の『大金剛山の譜』以外に2本のドキュメンタリーが上映された。 白黒ドキュメンタリー『雪の呼訴(L'Appel de la Neige)』とカラードキュメンタリー『東京(Tokio)』だった。 『東京』が「カラー」映画だったと特別に紹介したのは、当時のカラー映画が珍しかったからだ この映画は「テクニカラー」技法で作られたカラー映画で、日本の首都東京を紹介する内容だが、日本の映画社が製作した日本の映画ではなく、米国のMGM社が製作した米国のドキュメンタリー映画だった。 パリの日刊紙に『東京』というタイトルで紹介されたこの映画の原題は『モダン東京(Modern Tokyo, 1935)』で、アメリカの映画プロデューサージェームズ·フィッツパトリック(James A. Fitz Patrick)が出演し、解説を担当した上映時間7分3.. [대금강산보] 24.フランス語字幕なしで上映された『大金剛山の譜』 『大金剛山の譜』のパリ試写会は、記録で発見された最初であり唯一の海外上映であった。 製作が始まって2年ぶりで、朝鮮と日本で開封されてから約1年が経った後だった。 以後、この映画が朝鮮と日本以外の地域で再上映された記録はまだ発見されていない。 『大金剛山の譜』の試写会がパリのマスコミの注目を集めたものの、映画の内容や作品性のためではなく、ヨーロッパで始まったばかりの崔承喜の名声のためだった。 『大金剛山の譜』の内容や作品性を紹介する記事や評論はなく、映画の中の崔承喜の舞踊シーンについての言及もなかった。 3月10日付の『ラントランジジャン』に掲載された簡単な試写会後期がすべてだった。 「日本のドキュメンタリーと発声映画の試写会。 まずドキュメンタリー『雪の呼訴(L'Appel de la Neige)』が上映された。 雪原、スキー教室、スキー競技、凍りついた巨大な湖でのスケートシーンがあ.. [대금강산보] 23. ついに実現した『大金江山譜』のパリ試写会 崔承喜がパリに到着したのは1938年12月24日だった。 崔承喜を迎えるパリの雰囲気はニューヨークとはずいぶん違っていた。ピケットを持ったりプラカードを掲げる歓迎の人波はなかったが、朝鮮人と日本人僑民の対立もなく、反日デモもなかった。 ジョルジュ·シャンクホテルに宿舎を決め、シャンゼリゼにスタジオも設けた崔承喜は、はじめて落ち着いて公演の準備に没頭することができた。 ヨーロッパ初公演は1939年1月31日のパリ劇場で、二回目の公演は2月6日ブリュッセルの劇場であった。 2つの公演を成功裏に終えた崔承喜はパリで『大金剛山の譜』を上映した。 1939年2月17日午後9時、「サル·ド·イエナ(Salle D'Iena)」劇場であった。 「テアトル·ドイェナ(Thé̂tre d'Iéna)」とも呼ばれたこの劇場は、約500席規模の映画上映劇場である。 パリ16区のサルドイェーナアベニュー10番.. [대금강산보] 22. 南京大虐殺と『大金剛山の譜』 米国の反日ムードは1938年に入ってさらに激化した。 日本政府の厳しい報道統制にもかかわらず、日本軍が中国で犯した南京大虐殺の惨状が知られるようになったからだ。 米国では1937年12月15日付の『シカゴデイリーニュース』が南京大虐殺を初めて報道して以来、日本軍の残酷な行為が続々と報道された。 さらに日本メディアが報じた「日本軍の英雄的行為」が国際社会に知られ、公憤に油を注いだ。 特に、1937年11月30日付の『東京日日新聞』と11月1日付の『大阪毎日新聞』が報じた「百人斬り競争」は、これまでも日中戦争中の日本軍の残虐性を露わにした代表的な事例として取り上げられた。 二つの新聞は富山部隊の向井敏明少尉(26歳)と野田毅少尉(25歳)が無錫を占領して南京入りするまで、誰が先に100人の中国人の首を切るのかを競争した事実を報じた。 1937年12月13日付の両紙は、向井少尉が105人、野.. [대금강산보] 21. 『大金剛山の譜』の米国上映失敗は反日デモと日貨排斥のため 崔承喜の舞踊映画『大金剛山の譜』は、アメリカでは上映されなかった。 サンフランシスコ、ロサンゼルス、そしてニューヨークでの理由は少しずつ違うが、根本的な原因は同じだった。 米国で激化した反日デモと日貨排斥のためだった。 一部の崔承喜評伝著者は、当時の在日朝鮮人と在米朝鮮人がお互いの違いを理解できなかったため、在米同胞が崔承喜の公演活動を妨害したと説明した。 高嶋雄三郎(1981[1959]:75頁)はサンフランシスコで崔承喜の名前が「サイ·ショキ」と紹介されたが、彼女が日本領事館と日本新聞社に頻繁に出入りし、日本公館の行事に参加したことが在米朝鮮人を刺激し、結局朝鮮人同胞たちがLAイーベル劇場前で排日バッジを販売し、ニューヨークホテルに脅迫電話をかける事態に発展したと記述した。 「これは帝国主義本国に在住している在日朝鮮人と、在米朝鮮人のおかれている政治的社会的条件の違いからくる思考行.. 이전 1 ··· 4 5 6 7 8 9 10 다음