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최승희 이야기

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[대금강산보] 12.『大金剛山の譜』の撮影で崔承喜の熱演 『大金剛山の譜』の監督と俳優指名に多少失望したが、特撮監督を委嘱しただけでも日活映画社は誠意を見せたわけだ。 金剛山の景色を撮る「観光映画」であり、崔承喜の舞踊を撮る「舞踊映画」という点を考慮したものであろう。 撮影が始まると、外事課と鉄道局の協力も再開された。 鉄道局は日活撮影チームの移動に最大限の便宜を与え、外りんごはロケ地の手配に努めた。 特に金剛山地域は軍事地域に指定され、民間人の出入りが禁止されている所が多かったが、日活撮影チームがこれにこだわらないように駐屯していた日本軍の協力を取り付けたのが外事課だった。 評伝と研究書を総合すると、日活撮影チームの朝鮮ロケは1937年10月18日から11月24日までだった。 10月22日のと10月27日のが「監督水ヶ江龍一ほか14名の先遣隊が20日午後1時35分に入京し、その夜に金剛山ロケーションを発った」と報じていることから、彼らは10..
[대금강산보] 11. 『大金剛山の譜(1938)』と『朝鮮の旅(1935)』 『大金剛山の譜』の監督と俳優の水準が期待に及ばなかったとしても、崔承喜がこれを拒否するわけにはいかなかった。 日本の映画制作システムは、スタジオ体系を備えた大手映画会社が監督と俳優を専属雇用してプールを作り、制作映画に応じて監督と俳優を振り分けるといった具合だった。 崔承喜でさえ、『大金剛山の譜』に出演するために日活映画社の雇用契約書にサインしなければならなかった。 したがって、崔承喜がいくら著名な芸術家だとしても、雇用主である大手映画会社の決定を拒否したり、覆すことはできなかった。 しかも、早期に映画を完成するためには、過程が不満でも、映画会社が指名した監督、俳優たちと協力して撮影をしていかなければならなかった。 不幸中の幸いといえば、監督と俳優たちとは違い、日活映画社が指名した『大金剛山の譜』の撮影スタッフは抜群だった。 とくに撮影監督横田達之は伝説的なカメラマンで、1921年の『..
[대금강산보] 10. 冷めてしまった<大金剛産譜>製作の熱気 『大金剛山の譜』に注がれた初期の熱意が消えると、撮影·編集の密度が著しく低下している。 原作と脚色、音楽と振付が朝鮮と日本の最高の専門家たちによって行われた点は前で見た。 しかし日中戦争勃発から4カ月後に撮影が始まるころには「世界レベルの舞踊映画」を作るという熱意は消え去った。 それは日活映画社が構成した監督と俳優陣を見てもわかる。 日活映画社は『大金剛山の譜』の監督に水ヶ江龍一を名指しした。 彼は海外留学派ではあったが、世界水準の芸術映画製作能力が検証された監督ではなかった。 1937年9月22日の『毎日申報』が「監督は新進」と紹介するほどだった。 彼は『母の微笑』(1934)と『召集令』(1935)で渡辺邦男監督の助監督として実戦授業を受けた後、1937年に5つの映画を監督したことがあるが、そのうち4つがランニングタイム3-40分の国策広報映画だった。 劇映画は1937年10月21..
[대금강산보] 9. 4ヶ月待って始まった『大金剛山の譜』撮影 日中戦争初期(1937年7月~10月)、『大金剛山の譜』の制作が中断したのは朝鮮総督府外事課と鉄道局の支援が途絶えたためである。 権力および財力機関だったこの二つの部署は、日中戦争中の情報収集業務と暴増する兵力および軍需物資輸送業務で、舞踊映画に関心を持つ餘力がなかった。 この状況は1937年10月に入って多少緩和された. 日本軍は中国華北地域を掌握し、上海で勝機をつかみ、国民党政府の首都である南京攻略を準備し始めた。 特に、遼東と山東半島を占領した日本軍は、兵力と軍需物資の輸送を韓半島に依存する必要がなくなった。 船便ですぐに大連や清島に行くことができたからだ。 つまり、日中戦争の初期とは異なり、日本軍の朝鮮総督府への依存度が減り、総督府としては息をつく余裕ができたのである。 これにより、『大金剛山の譜』の制作当事者たちの関心も蘇った。 崔承喜と日活映画社としては7月初めから10月末..
[대금강산보] 8. 日中戦争とオリンピック取り消し、そして『大金剛山の譜』の中断 1937年7月1日、製作社が日活映画社に決まり、すぐに『大金剛山の譜』の撮影を控えていた。 日活は1912年に四つの群小撮影所が合併して株式会社の形で設立された最初のメジャー映画会社で、後に設立された松竹(1920)、東宝(1932)とともに当時3大映画会社だった。 日活は東京と京都に撮影所(studios)を運営したが、1930年代以来京都の大将軍撮影所は時代劇、東京の玉川撮影所は現代劇を制作した。 朝鮮総督府外事課の説得と鉄道局の支援約束で日活は『大金剛山の譜』の制作に飛び込み、撮影を東京の玉川撮影所に任せた。 これで『大金剛山の譜』は撮影と編集と配給だけを残していた。 しかし『大金剛山の譜』は撮影が始まる前に中断してしまった。 日中戦争が起こったのだ。 1931年に満州を占領した日本軍は1937年7月7日、北京西南郊外の盧溝橋を挟んで中国軍と対峙し、ある兵士の一時的な脱走を口実に..
[대금강산보] 7. 『大金剛山の譜』の編曲と原作、山田耕筰と玉川暎二 一方、洪蘭坡(ホン·ナンパ)と李鍾泰(イ·ジョンテ)が作曲した『大金剛山の譜』の主題歌「金剛山曲」の編曲は、山田耕筰(1886-1965)に依頼された。 山田耕筰は当時日本一の作曲家兼指揮者で、東京音楽学校声楽科を卒業し、獨逸伯林(ドイツ·ベルリン)王立芸術アカデミーの作曲科に留学しながらマックス·ブルック(Max Bruch、1838~1920)に師事した。 1914年、東京フィルハーモニー管弦楽団の首席指揮者に就任し、1917年にはニューヨークのカーネギーホールで自分の曲を演奏した。 1920年に帰国した同氏は、帝国劇場でワーグナーの「タンホイザー」を日本で初演し、1924年にはNHK交響楽団の前身である日本交響楽団を設立して演奏活動を続けた。 活発な海外活動により、1936年にフランス政府からレゾン·ドヌール勲章を授与された。 崔承喜が山田耕筰に「金剛山曲」の編曲を頼んだのは、彼..
[대금강산보] 6. 『大金剛山の譜』の作曲者、李鍾泰と洪蘭坡 総督府と崔承喜双方に『大金剛山の譜』は海外PRのための映画だった。 したがって、世界どこで上演しても遜色のない最高水準の映画でなければならなかった。 総督府は最高水準の制作費を策定し、崔承喜も各段階の制作者を最高水準の専門家に選定した。 『大金剛山の譜』の制作費は10万圓と策定された。 1928年1月4日付の『朝鮮日報』のという寄稿文で、沈薫(シム·フン)は当時の朝鮮映画一本の最高制作費が6千圓だったとした。 それから10年が過ぎ、無声映画がトキ映画に変わり、装備やフィルムが高くなったとしても、朝鮮映画の制作費は2万圓を超えることができなかった。 ところが、『大金剛山の譜』の制作費は10万圓だったので、日本有数の映画会社「日活」も負担を感じるほどだった。 制作費だけではなかった。 崔承喜は音楽と編曲、原作と脚本、衣装と照明などの担当者を朝鮮と日本の最高専門家に指名し、観光協会と総督府、..
[대금강산보] 5. 『大金剛山の譜』、崔承喜世界巡回公演の先遣隊 朝鮮総督府と京城観光協会が主導した『大金剛山の譜』の制作計画に、崔承喜は受動的に動員され、連れて行かれたのだろうか。 そうではなかった。 崔承喜自身がむしろ積極的に取り組み、これを推進したという証拠があちこちに見られる。 1937年2月18日付の『毎日申報』によると、兄の崔承一は予備交渉の席で「崔承喜が早くから金剛山を舞踊化しようと研究してきた」とし、外事課長の提案を受け入れたという。 この言葉が単に総督府の権力者の機嫌を取るためのリップサービスでないなら、崔承喜はすでに朝鮮の絶景である金剛山(クムガンサン)と自分の朝鮮舞踊を結合させることを考えていたということだ。 もう一つの証拠は、最初の報道に続く2月19日の『毎日申報の報道である。 この記事は「(公演初日の)20日夜10時から(場所未定)李王職雅楽部の李鍾泰(イ·ジョンテ)さんと音楽家の洪蘭坡(ホン·ナンパ)さん、崔承一さん、崔承..