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최승희 이야기

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[대금강산보] 20. ニューヨークホテル電話脅迫事件と『大金剛山の譜』 崔承喜はサンフランシスコとLAでそれぞれ1回ずつの公演をやっと終え、『大金剛山の譜』も上映できないまま2月3日ニューヨークに出発した。 ニューヨーク·ギルド劇場公演は2月19日に予定されている. 公演まで2週間の時間があったので、『大金剛山の譜』のニューヨーク上映のための書類作業と検閲を通過するための時間は十分だったはずだが、日本公館と朝鮮人同胞との対立的な雰囲気はさらに険しくなった。 朝鮮人同胞がユダヤ人、中国人と一緒になって崔承喜の公演をボイコットしたからだった。 中国人が乗り出したのは、日本の侵略戦争により、北京や上海、南京を奪われ、中国政府が瓦解の危機に追い込まれたためであり、ユダヤ人は、日本がナチス·ドイツと同盟を結んでいたため、反日デモと日貨排斥運動に積極的であった。 その他にも侵略的帝国主義国家である日本に抗議する米国内の社会主義者たちもこれに参加した。 崔承喜はニューヨ..
[대금강산보] 19. 『大金剛山の報』、LA上映不発、在米朝鮮人との葛藤増幅 『大金剛山の報』がサンフランシスコとロサンゼルスで上映できなかったのには、書類作業と検閲通過の問題以外にも、より根本的な問題があった。 『大金剛山の報』がボイコットされる可能性が高かったためだ。 崔承喜がサンフランシスコに到着した時、在米朝鮮人同胞が大々的に歓迎してくれた。 さらに大規模の在米日本人歓迎団も出迎した。 船から降りて2つの歓迎団を向かい合った崔承喜は複雑だっただろう。 どちらも失望させることができなかったからだ。 朝鮮人同胞たちは「世界の舞姬」として成長する「朝鮮の舞姬」に会いたがっており、ほとんど独立運動家だった在米韓国人社会の有力者たちは彼女との面談を期待した。 しかし、日本政府が発行したパスポートで旅行し、日本公館の常時監視下にいた崔承喜の事情は複雑だった。 崔承喜は結局、サンフランシスコの在米韓国人との面談を断り、在米韓国人団体の歓迎行事にも出席しなかった。 公演..
[대금강산보] 18. 『大金剛山の譜』、サンフランシスコで上映できず 崔承喜が横浜を離れてサンフランシスコに到着したのは1938年1月11日だった。 米州初公演であるサンフランシスコ·カレン劇場での公演は1月22日に予定されている。 したがって、予定通りなら崔承喜は1月11日から22日の間にサンフランシスコで『大金剛山の譜』を上映しなければならなかった。 それがこの映画の本来の目的だったからだ。 『大金剛山の譜』の海外上映のために崔承喜はフィルム一着を別に製作し、その上映権はすべて自分が持っていた。 サンフランシスコとロサンゼルスで『大金剛山の譜』を上映するための最も手軽な方法は、アメリカツアー興行会社が代行してくれることだった。 LAのアメリカ同胞新聞『新韓日報』1938年2月3日の記事によると、チェ·スンヒはコロンビアコンサルティング社と興行契約を結び、崔承喜の代行社はパーキンスだった。 しかし、崔承喜のサンフランシスコ到着後、『大金剛山の譜』の上映..
[대금강산보] 17. 『大金剛山の譜』の京城開封は乙支路<黄金座> 『大金剛山の譜』の京城封切り日は東京より一週間遅い1938年1月29日で、封切り館は乙支路の「黄金座」だった。 黄金座は当時の住所「黄金町第4丁目30番地」に位置する劇場で、植民地支配からの解放後の「国道劇場」、現在は「国道ホテル」の位置だ。 1907年に韓国初の近代式劇場である圓覺社が建てられた後、光武臺(1907)、團成社(1907)、演興社(1908)、長安寺(1910)などが次々と設立され、1913年には乙支路4街に「黄金芸能館」が開館した。 略して「黄金館」と呼ばれていたこの劇場は、1917年に「東亜倶楽部」、1925年に「京城普昌劇場」に名前が変わって運営されたが、1936年11月に東洋風ルネサンス式の地上3階地下1階の大理石劇場の建物が新築され、これが1千人の観客を収容した「黄金座」である。 1930年代、京城の劇場は清渓川(チョンゲチョン)を境に南北に分かれていた。 清..
[대금강산보] 16. 浅草「富士館」, 主演女優のいない封切 『大金剛山の譜』の試写会があった一週間後の1937年12月29日、崔承喜は午後3時に横浜を出発し、サンフランシスコに向かう豪華客船「秩父丸」の1等室に乗船した。 1935年末から2年以上準備しながら待ちに待った世界巡回公演の旅に出たのだ。 崔承喜は秩父丸の貨物室に楽器や衣装、公演小道具を入れた数十個の旅行用カバンを載せたが、その中には『大金剛山の譜』のフィルムが入ったカバンも含まれていた。 崔承喜は自分が切実に望んでいた『大金剛山の譜』フィルムを持って、世界巡回公演の壮途についたのである。 崔承喜が東京を発ってから3週間後、1938年1月21日、『大金剛山の譜』はついに東京·富士館で公開された。 浅草六区にある「富士館」は日活映画社の封切館だったので、玉川撮影所で制作された『大金剛山の譜』がこの劇場で封切られるのは予定されていた。 「富士館」は1908年8月に開館した客席1800席の大..
[대금강산보] 15. 『大金剛山の譜』の試写会に参加しなかった外事課長 12月24日付の『毎日申報』には、『大金剛山の譜』の試写会に李王殿下とともに、朝鮮総督府の大野禄一郎政務総監と吉田浩鉄道局長が出席したと報じた 朝鮮総督府のナンバー2である政務総監が総督の代わりに出席し、『大金剛山の譜』の製作に資金と協力を惜しまなかった鉄道局の局長が出席したのは理解できることだ。 しかし、この席に出席する人の名前が見当たらなかった。 相川勝六(1891-1973)外事課長だった。 『大金剛山の譜』の制作決定をはじめとする初期の迅速な進行は、相川外事課長の推進力によるものといえる。 彼の目的は総督府の財政難打開のための海外観光客誘致だったが、少なくとも彼の業務の進め方と能力は非常に印象的だった。 彼は崔承喜と崔承一を手伝って音楽と原作作りを支援し、崔承喜が振り付けを終えるまであらゆる便宜を図った。 相川勝六は頭が良く,能力があり,剛直な警官だった. 東京帝国大学法学部出..
[대금강산보] 14. 英親王が出席した『大金江山譜』の試写会 『大金剛山の譜』は一は一ヶ月の撮影と一ヶ月の編集を経て完成し、1937年12月21日に試写会が開かれた。 場所は東京にある日活映画社の玉川撮影所だったが、この試写会の出席者らが目を引く。 12月24日付の『毎日申報』の報道によると、この試写会に「恐れ多くも李王殿下の台臨と仰ぎ、大野禄一郎政務総監や吉田浩鉄道局長らが出席」したという。 「李王殿下」とは、朝鮮最後の皇太子であったが、帝位に就けず国を失った英親王(1897-1970)を指す。 1907年に皇太子となった後の正式な呼称は「懿愍(ウィミン)太子」だが、朝鮮が日本の保護領になると、伊藤博文により同年12月に日本留学に強制的に送られた。 1910年、大韓帝国が日本に合併されると、皇帝純宗(スンジョン)は王に格下げされ、懿愍太子も王世子に格下げされ、日本皇族に準ずる礼遇を受け始めた。 1920年4月、彼は日本皇族の梨本宮方子と結婚した..
[대금강산보] 13. 『大金剛山の譜』のストーリーライン、朝鮮の舞姬のロマンス 残念なことに『大金剛山の譜』のフィルムは消失してしまった。 それがどんな映画だったかを見せてくれる映画史の文献も残っていない。 つまり、原作や脚本もなく、フィルムもないため『大金剛山の譜』の内容や作品性を推測できる資料がほとんどないわけである。 ただ、あちこちに散らばった断片的なメディアの記事と日本映画データベースの配役記録を参考にすれば、それが大体どのような内容の映画だったのか見当がつくだけだ。 まず、『大金剛山の譜』の日本公開前に散布されたチラシの内容は以下の通りであった。 「…半島の奇異な名勝、金剛山の…景勝と長年の祭祀行事の珍しさがストーリーと並行して、未知の国朝鮮を余すところなく紹介し、さらに自信に満ちた崔承喜の素晴らしい舞踊シーン、... 妖艶な美姬、崔承喜の舞踊傑作集… 天然美と美術美を混演させた異彩編...」 この広報文であらすじを推し量れる内容はあまりない。 ただ「由..