전체 글 (490) 썸네일형 리스트형 [칼의 노래] 2. 칼의 울음과 노래 책 제목이 이므로 작품 속에 ‘칼’ 이야기가 나오는 것은 당연하다. 16세기 조선의 무장, 그것도 전쟁 중의 장군 이야기라면 근접 살상무기로서의 칼이 자주 등장하는 것은 전혀 이상한 일은 아니다. 그런데 칼은 자주 중층적 의미로 등장한다. 칼이 사람을 죽이는 날선 도구 그 자체를 가리키는 것은 물론이다. 그래서 이순신은 자신의 칼을 “존망이 명멸하는 세(勢)의 마당(176쪽)”이라고 분명히 인식했다. 칼은 무력 뿐 아니라 영향력 일반을 가리키는 상징으로도 자주 사용되었다. 이순신의 거처를 가리키면서 저자는 “두 자루의 환도와 면사첩이 걸린 토방”이라는 표현을 자주 썼는데, 이순신은 이 “환도 두 자루는 나를 베는 임금의 칼(121쪽)”이라며 경계의 상징으로 삼았다. 제목은 칼의 ‘노래’지만, 작품 속에서.. [칼의 노래] 1. 두 번째 감상 모임 심범섭 선생과 두 번째 감상 모임을 가졌다. 강릉 에서였고, 첫 번째 이후 5개월만이었다. 을 같이 읽은 것은 작년 9월이었는데, 그때는 글로 옮길 생각이 들지 않았다. 다른 일로 바빴고, ‘너무 좋다’는 느낌에 벅찼고, 마음 한 켠에 ‘이런 멋진 시간’은 둘만 간직하는 것도 나쁘지 않겠다는 생각도 살짝 있었던 것 같다. 이번 감상은 몇 가지 적어놓고 싶은 게 생겼다. 첫 번째의 감상회도 좋았고, 그 때문에 같은 작가의 대표작 를 다음 감상의 책으로 정했던 것이었지만, 심선생과 나눈 가 너무 좋았다. 막상 글을 쓰려니까 그 시간을 뭐라고 불러야할지 망설여졌다. 감상(感想)은 약하고 사소했고, 비평(批評)은 건방지고 시답잖게 느껴졌다. 생각 끝에 감상(鑑賞)이라고 부르기로 했다. 글을 자세히 살피면서(鑑).. [대금강산보] 30. 結論: 今も『大金剛山の譜』を求めて 崔承喜の舞踊映画『大金剛山の譜』は、1937年2月17日の京城朝鮮ホテルで開かれた観光協会懇談会で初めて提案され、1939年2月17日のパリ試写会を最後に記録から消えた。 その後50年間『大金剛山の譜』は忘れられた。 初期の評伝の著者も『大金剛山の譜』を知らなかった。 徐萬一(ソ·マンイル)の『朝鮮を輝かせて私』と高嶋雄三郞の『崔承喜(1959)』にもこの映画は言及されず、高嶋雄三郞が『崔承喜(1981)』の裁判を出した時も同じだった。 約10年が過ぎて出版された姜利香(カン·イヒャン)の『生命の踊り·愛の踊り』(1993)も自伝的映画『半島の舞姬(1936)』については比較的長く述べているが、わずか2年後に公開された『大金剛山の譜(1938)』については言及されていない。 評伝の中で初めて『大金剛山の譜』に触れたのは鄭昞浩(チョン·ビョンホ、1995)である。 パリ試写会以来、この映.. [대금강산보] 29. 『大金剛山の譜』のフィルムはどうなったのだろうか。 崔承喜の舞踊映画『大金剛山の譜』は、1939年2月17日のパリ試写会を最後に文献から消えた。 その後、この映画が再び上映されたという記録は発見されなかった。 世界巡回公演期間だけでなく、巡回公演を終えて帰国した後も同じだった。 パリ·サルドイェーナ劇場試写会以後,『大金剛山の譜』のフィルムは,衣装と楽器,小物と蓄音機などとともにシャンゼリゼのスタジオに保管されたに違いない 戦雲が漂うと崔承喜は8月末頃、パリ郊外のバノ城に宿舎を移したが、スタジオはそのまま維持した。 9月1日に戦争が勃発し、日本大使館から避難命令を受けると、崔承喜は宿舎とスタジオを撤収してボルドーに向かった。 第2避難船「カジママル(鹿島丸)」は9月7日、ボルドーに入港したが、巡回公演を続けたかった崔承喜は、乗船を諦め、汽車の便でローマに向かった。 乗り換えのためにマルセイユに降りた崔承喜は、日本領事館からイタリアも参戦.. [대금강산보] 28. 『大金剛山の譜』はカンヌ映画祭に出品されたのだろうか。 崔承喜の舞踊映画『大金剛山の譜』に対する調査を続けながら、もしかしたらこの映画がカンヌ映画祭に出品されたのかも知れないという気がした。 もちろん、そのような主張を盛り込んだ文献や証言に接したことはない。 しかし、調査を進めば進めるほど、その考えがなくならなかったのは、次のような二つの情況のためだ。 まず、崔承喜はフランスの新しい映画祭が組織されていた時期にフランスに滞在し、1938年に公開された劇映画『大金剛山の譜』のフィルムを手中に持っていた。 そのうえ、彼は朝鮮と日本を除く世界どの地域でも、この映画を上映する権利を保有していた。 崔承喜はパリ試写会を通じて『大金剛山の譜』をヨーロッパで上映したことがある。 もしかしたらこの試写会はヨーロッパ上映を証明するための行事として組織されたかもしれない。 これにより、『大金剛山の譜』はフランスで組織される新しい映画祭に出品できる基本的な条件を.. [대금강산보] 27. 前夜祭を終えて取り消された第1回カンヌ映画祭 米国がフランスの新しい映画祭を支援したのは、イタリアに対する政治的抗議であっただけでなく、経済的対決でもあった。 イタリアがベネチア映画祭を口実にハリウッド映画の輸入を独占しようとしたためだ。 イタリアのハリウッド映画の独占を防ぐためには、米国映画産業が欧州市場に進出する新しい窓口を作らなければならなかった。 フランスもイタリアを抜いてハリウッド映画を輸入する機会を掴みたかった。 ハリウッド映画の欧州販路をめぐり、米国とフランスの利害が一致したのだ。 新しい映画祭の創設が呼びかけられるようになったのは、映画宗主国としてのフランス人の自負心も一役買った。 フランス人たちが映画宗主国を自任したのはリュミエール兄弟のためだ。 オーギュスト·リュミエール(Auguste Marie Louis Nicholas Lumirere, 1862-1954)とルイ·ジャン·リュミエール(Louis .. [대금강산보] 26. ファシズムに汚染された「ヴェネツィア映画祭」と「カンヌ映画祭」の登場 カンヌ映画祭(1939)はヴェネツィア映画祭(1932)、ベルリン映画祭(1951)とともに欧州の3大映画祭に挙げられるが、1938年までも米国のアカデミー(1929)を除けば国際映画祭ではヴェネツィア映画祭が唯一だった。 1932年のヴェネツィアビエンナーレの一部として始まった映画祭は、1933年を越えて1934年から例年行事に転換され、競争部門が導入され、1938年に6回目を迎えた。 1937年の第5回大会ではフランスのジャン·ルノアール(Jean Renoir)監督の『巨大な幻想(La Grande Illusion, 1937)』が「最高芸術賞(Prixdumeilleurensemble artistique)」を受賞した。 『巨大な幻想』は第1次世界大戦後に勃興した極右民族主義とファシズムを警戒し、差し迫ったもう一つの戦争を警告する反戦平和映画だった。 この映画はフランスだ.. [대금강산보] 25. 同時上映の『東京』と『雪の呼訴』 「フランコ·ヤポン委員会」が開催した日本映画試写会では、崔承喜の『大金剛山の譜』以外に2本のドキュメンタリーが上映された。 白黒ドキュメンタリー『雪の呼訴(L'Appel de la Neige)』とカラードキュメンタリー『東京(Tokio)』だった。 『東京』が「カラー」映画だったと特別に紹介したのは、当時のカラー映画が珍しかったからだ この映画は「テクニカラー」技法で作られたカラー映画で、日本の首都東京を紹介する内容だが、日本の映画社が製作した日本の映画ではなく、米国のMGM社が製作した米国のドキュメンタリー映画だった。 パリの日刊紙に『東京』というタイトルで紹介されたこの映画の原題は『モダン東京(Modern Tokyo, 1935)』で、アメリカの映画プロデューサージェームズ·フィッツパトリック(James A. Fitz Patrick)が出演し、解説を担当した上映時間7分3.. 이전 1 ··· 51 52 53 54 55 56 57 ··· 62 다음