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[대금강산보] 16. 浅草「富士館」, 主演女優のいない封切 『大金剛山の譜』の試写会があった一週間後の1937年12月29日、崔承喜は午後3時に横浜を出発し、サンフランシスコに向かう豪華客船「秩父丸」の1等室に乗船した。 1935年末から2年以上準備しながら待ちに待った世界巡回公演の旅に出たのだ。 崔承喜は秩父丸の貨物室に楽器や衣装、公演小道具を入れた数十個の旅行用カバンを載せたが、その中には『大金剛山の譜』のフィルムが入ったカバンも含まれていた。 崔承喜は自分が切実に望んでいた『大金剛山の譜』フィルムを持って、世界巡回公演の壮途についたのである。 崔承喜が東京を発ってから3週間後、1938年1月21日、『大金剛山の譜』はついに東京·富士館で公開された。 浅草六区にある「富士館」は日活映画社の封切館だったので、玉川撮影所で制作された『大金剛山の譜』がこの劇場で封切られるのは予定されていた。 「富士館」は1908年8月に開館した客席1800席の大..
[대금강산보] 15. 『大金剛山の譜』の試写会に参加しなかった外事課長 12月24日付の『毎日申報』には、『大金剛山の譜』の試写会に李王殿下とともに、朝鮮総督府の大野禄一郎政務総監と吉田浩鉄道局長が出席したと報じた 朝鮮総督府のナンバー2である政務総監が総督の代わりに出席し、『大金剛山の譜』の製作に資金と協力を惜しまなかった鉄道局の局長が出席したのは理解できることだ。 しかし、この席に出席する人の名前が見当たらなかった。 相川勝六(1891-1973)外事課長だった。 『大金剛山の譜』の制作決定をはじめとする初期の迅速な進行は、相川外事課長の推進力によるものといえる。 彼の目的は総督府の財政難打開のための海外観光客誘致だったが、少なくとも彼の業務の進め方と能力は非常に印象的だった。 彼は崔承喜と崔承一を手伝って音楽と原作作りを支援し、崔承喜が振り付けを終えるまであらゆる便宜を図った。 相川勝六は頭が良く,能力があり,剛直な警官だった. 東京帝国大学法学部出..
[대금강산보] 14. 英親王が出席した『大金江山譜』の試写会 『大金剛山の譜』は一は一ヶ月の撮影と一ヶ月の編集を経て完成し、1937年12月21日に試写会が開かれた。 場所は東京にある日活映画社の玉川撮影所だったが、この試写会の出席者らが目を引く。 12月24日付の『毎日申報』の報道によると、この試写会に「恐れ多くも李王殿下の台臨と仰ぎ、大野禄一郎政務総監や吉田浩鉄道局長らが出席」したという。 「李王殿下」とは、朝鮮最後の皇太子であったが、帝位に就けず国を失った英親王(1897-1970)を指す。 1907年に皇太子となった後の正式な呼称は「懿愍(ウィミン)太子」だが、朝鮮が日本の保護領になると、伊藤博文により同年12月に日本留学に強制的に送られた。 1910年、大韓帝国が日本に合併されると、皇帝純宗(スンジョン)は王に格下げされ、懿愍太子も王世子に格下げされ、日本皇族に準ずる礼遇を受け始めた。 1920年4月、彼は日本皇族の梨本宮方子と結婚した..
[대금강산보] 13. 『大金剛山の譜』のストーリーライン、朝鮮の舞姬のロマンス 残念なことに『大金剛山の譜』のフィルムは消失してしまった。 それがどんな映画だったかを見せてくれる映画史の文献も残っていない。 つまり、原作や脚本もなく、フィルムもないため『大金剛山の譜』の内容や作品性を推測できる資料がほとんどないわけである。 ただ、あちこちに散らばった断片的なメディアの記事と日本映画データベースの配役記録を参考にすれば、それが大体どのような内容の映画だったのか見当がつくだけだ。 まず、『大金剛山の譜』の日本公開前に散布されたチラシの内容は以下の通りであった。 「…半島の奇異な名勝、金剛山の…景勝と長年の祭祀行事の珍しさがストーリーと並行して、未知の国朝鮮を余すところなく紹介し、さらに自信に満ちた崔承喜の素晴らしい舞踊シーン、... 妖艶な美姬、崔承喜の舞踊傑作集… 天然美と美術美を混演させた異彩編...」 この広報文であらすじを推し量れる内容はあまりない。 ただ「由..
[대금강산보] 12.『大金剛山の譜』の撮影で崔承喜の熱演 『大金剛山の譜』の監督と俳優指名に多少失望したが、特撮監督を委嘱しただけでも日活映画社は誠意を見せたわけだ。 金剛山の景色を撮る「観光映画」であり、崔承喜の舞踊を撮る「舞踊映画」という点を考慮したものであろう。 撮影が始まると、外事課と鉄道局の協力も再開された。 鉄道局は日活撮影チームの移動に最大限の便宜を与え、外りんごはロケ地の手配に努めた。 特に金剛山地域は軍事地域に指定され、民間人の出入りが禁止されている所が多かったが、日活撮影チームがこれにこだわらないように駐屯していた日本軍の協力を取り付けたのが外事課だった。 評伝と研究書を総合すると、日活撮影チームの朝鮮ロケは1937年10月18日から11月24日までだった。 10月22日のと10月27日のが「監督水ヶ江龍一ほか14名の先遣隊が20日午後1時35分に入京し、その夜に金剛山ロケーションを発った」と報じていることから、彼らは10..
[대금강산보] 11. 『大金剛山の譜(1938)』と『朝鮮の旅(1935)』 『大金剛山の譜』の監督と俳優の水準が期待に及ばなかったとしても、崔承喜がこれを拒否するわけにはいかなかった。 日本の映画制作システムは、スタジオ体系を備えた大手映画会社が監督と俳優を専属雇用してプールを作り、制作映画に応じて監督と俳優を振り分けるといった具合だった。 崔承喜でさえ、『大金剛山の譜』に出演するために日活映画社の雇用契約書にサインしなければならなかった。 したがって、崔承喜がいくら著名な芸術家だとしても、雇用主である大手映画会社の決定を拒否したり、覆すことはできなかった。 しかも、早期に映画を完成するためには、過程が不満でも、映画会社が指名した監督、俳優たちと協力して撮影をしていかなければならなかった。 不幸中の幸いといえば、監督と俳優たちとは違い、日活映画社が指名した『大金剛山の譜』の撮影スタッフは抜群だった。 とくに撮影監督横田達之は伝説的なカメラマンで、1921年の『..
[대금강산보] 10. 冷めてしまった<大金剛産譜>製作の熱気 『大金剛山の譜』に注がれた初期の熱意が消えると、撮影·編集の密度が著しく低下している。 原作と脚色、音楽と振付が朝鮮と日本の最高の専門家たちによって行われた点は前で見た。 しかし日中戦争勃発から4カ月後に撮影が始まるころには「世界レベルの舞踊映画」を作るという熱意は消え去った。 それは日活映画社が構成した監督と俳優陣を見てもわかる。 日活映画社は『大金剛山の譜』の監督に水ヶ江龍一を名指しした。 彼は海外留学派ではあったが、世界水準の芸術映画製作能力が検証された監督ではなかった。 1937年9月22日の『毎日申報』が「監督は新進」と紹介するほどだった。 彼は『母の微笑』(1934)と『召集令』(1935)で渡辺邦男監督の助監督として実戦授業を受けた後、1937年に5つの映画を監督したことがあるが、そのうち4つがランニングタイム3-40分の国策広報映画だった。 劇映画は1937年10月21..
[대금강산보] 9. 4ヶ月待って始まった『大金剛山の譜』撮影 日中戦争初期(1937年7月~10月)、『大金剛山の譜』の制作が中断したのは朝鮮総督府外事課と鉄道局の支援が途絶えたためである。 権力および財力機関だったこの二つの部署は、日中戦争中の情報収集業務と暴増する兵力および軍需物資輸送業務で、舞踊映画に関心を持つ餘力がなかった。 この状況は1937年10月に入って多少緩和された. 日本軍は中国華北地域を掌握し、上海で勝機をつかみ、国民党政府の首都である南京攻略を準備し始めた。 特に、遼東と山東半島を占領した日本軍は、兵力と軍需物資の輸送を韓半島に依存する必要がなくなった。 船便ですぐに大連や清島に行くことができたからだ。 つまり、日中戦争の初期とは異なり、日本軍の朝鮮総督府への依存度が減り、総督府としては息をつく余裕ができたのである。 これにより、『大金剛山の譜』の制作当事者たちの関心も蘇った。 崔承喜と日活映画社としては7月初めから10月末..