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최승희 이야기

[대금강산보] 29. 『大金剛山の譜』のフィルムはどうなったのだろうか。

崔承喜舞踊映画大金剛山1939217のパリ試写会最後文献からえたそのこの映画上映されたという記録発見されなかった世界巡回公演期間だけでなく巡回公演えて帰国したじだった

 

パリ·サルドイェーナ劇場試写会以後,『大金剛山のフィルムは衣装楽器小物蓄音機などとともにシャンゼリゼのスタジオに保管されたにいない 戦雲うと崔承喜8月末頃パリ郊外のバノ宿舎したがスタジオはそのまま維持した

 

91戦争勃発日本大使館から避難命令けると崔承喜宿舎とスタジオを撤収してボルドーにかった2避難船カジママル(鹿島丸)97ボルドーに入港したが巡回公演けたかった崔承喜乗船汽車便でローマにかった

 

舞踊映画『大金剛山の譜』のフィルムは、1939年2月17日の試写会以降、シャンゼリゼに位置する崔承喜舞踊スタジオに保管されていたと推測される。

 

えのためにマルセイユにりた崔承喜日本領事館からイタリアも参戦するといういたこれ以上巡回公演けることはできないとった崔承喜はマルセイユで3避難船ハコネマル(箱根丸)んだこの918マルセイユ出発1025にニューヨークに到着した

 

崔承喜1939年末から米国公演再開1940南米公演につながったブラジルアルゼンチンウルグアイチリペルーコロンビアエクアドルとメキシコ公演19401124サンフランシスコでダツダマル(龍田丸)125日横浜到着した

 

以上旅程考慮すれば1939217日以降大金剛山フィルムの素材4時期けられる(1)97まではサンゼリゼのスタジオに保管されていた(2)パリを出発してボルドーとマルセイユを1025ニューヨークに到着するまでは荷物一緒汽車貨物室積載されていたはずだ。 (3米国南米巡回公演時期にもチェ·スンヒはこれをっていただろう(4)日本った永福町自宅保管されたとわれる

 

巡回公演全期間中崔承喜がフィルムを紛失しなかったら、『大金剛山永福町自宅保管され1944崔承喜東京北京定着する所持していただろう手荷物制限などの理由自宅していれば東京大空襲屋敷破壊されたえていただろう2北京滞在期間にも大金剛山中国上映されたという記録がないことをるとこのフィルムは東京破壊された可能性排除できない

 

しかしこのフィルムが場所紛失された可能性もあるパリをれるスタジオにしておいた可能性もなくはない大切なフィルムだったのでわざわざしたはずはないがって紛失した可能性排除できない

 

崔承喜は1939年9月18日、マルセイユから避難船箱根丸に乗って欧州を発った。

 

そこで筆者はヨーロッパ取材中崔承喜代行社であったバルマレット試写会主催したフランコ·ヤーフォン委員会調査した。 「フランコ·ヤーフォン委員会はなくなり関連資料敗戦とともに日本移管されたとした。 「バルマレット独自博物館運営しているが目録上では崔承喜するいかなる資料所蔵していない

 

崔承喜がパリをってボルドーをてマルセイユに移動する紛失した可能性もある避難民がいっぺんに移動していた時期であったため紛失紛失物すことは不可能だったはずであるしたがってこのとき紛失した場合、『大金剛山所在調べるのはほぼ不可能である

 

米国南米巡回公演期間にフィルムを紛失した可能性崔承喜比較的安定的環境公演けたからだただし194010崔承喜がチリでスパイ容疑をかけられててボゴタをれた、『大金剛山のフィルムを紛失した可能性排除できない

 

以上総合すると、『大金剛山のフィルムは東京永福町邸焼失した可能性あるいは南米巡業時期にチリで紛失した可能性もある

 

そのほか崔承喜がこのフィルムを中国にまでんだなら彼女中国滞在時代調査する必要もあるしかし80年余りがぎた、『大金剛山のフィルム素材すのは容易ではないだろう(*)