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1.鄭世和(チョン·セファ)先生に会う 私が兵庫県の宝塚に埋められた5人の朝鮮人労働者の話を初めて聞いたのは、2019年11月初めに大阪であった。 兵庫県伊丹市に居住する在日同胞写真家鄭世和(チョン·セファ)先生からだった。 1910年代と20年代にあった同地域の土木工事中に事故で死亡した朝鮮人を追悼する碑石が立てられるという話を初めて聞いたのだ。 しかし、その時、私が追悼碑の話に耳を傾ける心の状態ではなかった。 在日朝鮮人の慰霊碑や追悼碑に対する先知識もあまりなかったし、何より当時私は舞踊家の崔承喜(チェ·スンヒ)先生に夢中になって、彼女が1930年代、日本各地で行った朝鮮舞踊公演を調査しているところだった。 それより2年ほど前の2017年5月、私は崔承喜先生のヨーロッパ公演を調査して取材記を書いたことがあり、その連載が終わるとすぐに日本公演の調査を始めた。 その後1年半の間、私は北海道の釧路から沖縄の那覇に至るまで、崔承..
1. 崔承喜の舞踊留学、初の単独報道は『京城日報』 「舞踊芸術家の目に留まった崔承喜さん。」 1926年3月26日付けの『每日申報』の2面に掲載された記事の見出しです。 この記事がいわゆる「崔承喜(チェ·スンヒ)現象」の出発点だと言われてきました。 日帝強制占領期が終わるまで20年間、崔承喜という名前は、朝鮮と日本全域に広がりました。 「中国や台湾、沖縄はもとより、南北の米州や欧州のメディアからも注目を集めました。 朝鮮が解放された後、韓国メディアからは彼の名前が削除されましたが、北朝鮮では大々的に広がったはずです。 1950年代から60年代にはソ連や東欧諸国でもその名に熱狂しました。 崔承喜ほとんどの評伝は『每日申報』のこの記事がチェ·スンヒの名前が新聞に報道された初の記事だと述べてきましたが、それは事実ではありません。 『每日申報』より前日の3月25日に崔承喜を報道した新聞がありました。 『每日申報』の姉妹紙であり、朝鮮総督府の機関..