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[대금강산보] 8. 日中戦争とオリンピック取り消し、そして『大金剛山の譜』の中断 1937年7月1日、製作社が日活映画社に決まり、すぐに『大金剛山の譜』の撮影を控えていた。 日活は1912年に四つの群小撮影所が合併して株式会社の形で設立された最初のメジャー映画会社で、後に設立された松竹(1920)、東宝(1932)とともに当時3大映画会社だった。 日活は東京と京都に撮影所(studios)を運営したが、1930年代以来京都の大将軍撮影所は時代劇、東京の玉川撮影所は現代劇を制作した。 朝鮮総督府外事課の説得と鉄道局の支援約束で日活は『大金剛山の譜』の制作に飛び込み、撮影を東京の玉川撮影所に任せた。 これで『大金剛山の譜』は撮影と編集と配給だけを残していた。 しかし『大金剛山の譜』は撮影が始まる前に中断してしまった。 日中戦争が起こったのだ。 1931年に満州を占領した日本軍は1937年7月7日、北京西南郊外の盧溝橋を挟んで中国軍と対峙し、ある兵士の一時的な脱走を口実に..
[대금강산보] 7. 『大金剛山の譜』の編曲と原作、山田耕筰と玉川暎二 一方、洪蘭坡(ホン·ナンパ)と李鍾泰(イ·ジョンテ)が作曲した『大金剛山の譜』の主題歌「金剛山曲」の編曲は、山田耕筰(1886-1965)に依頼された。 山田耕筰は当時日本一の作曲家兼指揮者で、東京音楽学校声楽科を卒業し、獨逸伯林(ドイツ·ベルリン)王立芸術アカデミーの作曲科に留学しながらマックス·ブルック(Max Bruch、1838~1920)に師事した。 1914年、東京フィルハーモニー管弦楽団の首席指揮者に就任し、1917年にはニューヨークのカーネギーホールで自分の曲を演奏した。 1920年に帰国した同氏は、帝国劇場でワーグナーの「タンホイザー」を日本で初演し、1924年にはNHK交響楽団の前身である日本交響楽団を設立して演奏活動を続けた。 活発な海外活動により、1936年にフランス政府からレゾン·ドヌール勲章を授与された。 崔承喜が山田耕筰に「金剛山曲」の編曲を頼んだのは、彼..
[대금강산보] 6. 『大金剛山の譜』の作曲者、李鍾泰と洪蘭坡 総督府と崔承喜双方に『大金剛山の譜』は海外PRのための映画だった。 したがって、世界どこで上演しても遜色のない最高水準の映画でなければならなかった。 総督府は最高水準の制作費を策定し、崔承喜も各段階の制作者を最高水準の専門家に選定した。 『大金剛山の譜』の制作費は10万圓と策定された。 1928年1月4日付の『朝鮮日報』のという寄稿文で、沈薫(シム·フン)は当時の朝鮮映画一本の最高制作費が6千圓だったとした。 それから10年が過ぎ、無声映画がトキ映画に変わり、装備やフィルムが高くなったとしても、朝鮮映画の制作費は2万圓を超えることができなかった。 ところが、『大金剛山の譜』の制作費は10万圓だったので、日本有数の映画会社「日活」も負担を感じるほどだった。 制作費だけではなかった。 崔承喜は音楽と編曲、原作と脚本、衣装と照明などの担当者を朝鮮と日本の最高専門家に指名し、観光協会と総督府、..
[대금강산보] 5. 『大金剛山の譜』、崔承喜世界巡回公演の先遣隊 朝鮮総督府と京城観光協会が主導した『大金剛山の譜』の制作計画に、崔承喜は受動的に動員され、連れて行かれたのだろうか。 そうではなかった。 崔承喜自身がむしろ積極的に取り組み、これを推進したという証拠があちこちに見られる。 1937年2月18日付の『毎日申報』によると、兄の崔承一は予備交渉の席で「崔承喜が早くから金剛山を舞踊化しようと研究してきた」とし、外事課長の提案を受け入れたという。 この言葉が単に総督府の権力者の機嫌を取るためのリップサービスでないなら、崔承喜はすでに朝鮮の絶景である金剛山(クムガンサン)と自分の朝鮮舞踊を結合させることを考えていたということだ。 もう一つの証拠は、最初の報道に続く2月19日の『毎日申報の報道である。 この記事は「(公演初日の)20日夜10時から(場所未定)李王職雅楽部の李鍾泰(イ·ジョンテ)さんと音楽家の洪蘭坡(ホン·ナンパ)さん、崔承一さん、崔承..
[대금강산보] 4. 朝鮮総督府の観光政策、「金剛山」を広報せよ。 1920年代と30年代、朝鮮総督府は財政難に苦しんでいた。 1925年2月1日付のに掲載された論説によると総督府の初期財政は慢性赤字だった。 韓日併合前の1907年、日本の議会は保護令になった朝鮮の統治のために、朝鮮統監部に5年間、2千万圓の財政を支援することを決めた。 しかし、それから強み(1910年)までの財政支援は3年間で2千6百万圓へと増えた。 5年間の予算を3年ぶりに上回ったことになる。 1911年から日本政府の総督府予算支援は年間1,235万圓とさらに増えた。 日本政府は、1919年までに朝鮮総督府が財政自立を要求し、予算を漸進的に削減した。 しかし、1919年に三一万歳運動が起こり、総督府は警察と憲兵兵力を大幅に増加させなければならなかった。 支出予算は再び増え、総督府は財政自立に失敗した。 1919年から1924年まで総督府は毎年1千5百万圓の予算を本国政府から支援を受..
[대금강산보] 3. 権力と金が始めた『大金剛山の譜』 「金剛山を舞台に舞踊映画を作ろう」というアイデアを初めて出したのは崔承喜ではなかった。 それは京城(キョンソン=ソウル)の観光協会の実業家であり、朝鮮総督府の外事課だった。 1937年2月18日付の『每日申報』は「数日前、朝鮮ホテルで開かれた観光協会とロータリークラブ会員たちとの懇談会」が開かれ、この場で崔承喜の「渡欧に遭い、彼女の芸術により天下の名勝·金剛山を広く世界に宣伝しようという意見」が示されたと報じた。 具体的には「(崔承喜が)金剛山を背景に朝鮮情緒の濃厚な金剛山踊り」を踊る映画を制作しようということだった。 記事はこの提案が「各方面から大いに期待」を集め、「総督府外事課と朝鮮観光協会を通じて具体化」され、2月17日には「相川外事課長が崔承喜女史の実兄崔承一(チェ·スンイル)氏と予備交渉」を行った末、「(崔承喜)女史の入城と同時に実現する模様」と伝えた。 『每日申報』の予想通..
[대금강산보] 2. 『大金剛山の譜』に挿入された8つの舞踊作品 3本の崔承喜の映画はいずれも「舞踊映画」と呼ばれているが、正確な命名法ではない。 3つの映画にいずれも舞踊シーンが登場するが、舞踊シーンの比重と形式が異なるためだ。 『半島の舞姬(1936)』にも舞踊シーンが出てくるが、この映画はもともと崔承喜の成功記であり、挿入された舞踊シーンも主人公の活動を紹介する方法である。 したがって『半島の舞姬』は厳格な意味の「舞踊映画」ではなく「舞踊家に対する映画」に過ぎない。 しかし、『沙道城の物語(1956)』は同名の舞踊劇を映画化したものなので「舞踊劇映画」、『大金剛山の譜』は完結した舞踊作品が含まれた本来の意味の「舞踊映画」である。この2つの「舞踊映画」を「音楽映画」と比較すると、『沙道城の物語』がミュージカル映画『オペラ座の怪人(2004)』や『マンマ·ミーア(2008)』に近いとすれば、『大金剛山の譜』は『サウンド·オブ·ミュージック(1965..
[대금강산보] 1. 『大金剛山の譜(1938)』のパリ上演 朝鮮舞踊家の崔承喜(チェ·スンヒ)先生は1939年、ヨーロッパ巡回公演で自身が主演した舞踊映画『大金剛山の譜(1938)』を上演した。 2月17日金曜日夜9時、パリのセーヌ川沿いのトロカデロ庭園(Jardins de Trocadéro)に隣接したサルドエナ(salle d'Iéna)劇場であった。 2017年夏、崔承喜先生のパリ公演を調べていたところ、私はこの映画の上演を報道した記事を見つけることができた。 『ルタン(Le Temps)』をはじめとするパリの日刊紙6社がこの事実を報道し、『ラントランジジャン(L'Intransigeant)』は簡単な批評も掲載した。 これは予想していなかった発見だったが、この取材のためにかなり予習をしたものの、この映画のヨーロッパ上演に関する研究は全くなく、8巻に及ぶ『崔承喜評伝』たちもこれについて言及していなかったからだ。 舞台芸術家の崔承喜が映像..