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[쿠보 다카시] 大阪教育改革運動、5日の整理と今後の見通し 大阪の教育改革運動が目まぐるしく展開している。 5月17日、大阪市立木川南小学校の久保敬校長が松井一郎大阪市長に「大阪市教育行政への提言」と題する教育政策批判書簡を送り、すべてが始まった。 小学校の校長が大阪市長の教育政策を真っ向から批判したのは異例のことだが、久保市長の批判は現実に基づいた合理的な批判に見え、教育の究極的な目標を忘れない合目的的な主張に聞こえた。 久保校長が抗議書簡を送ったことを18日、が単身で報じ、19日にはが書き取った。 この時までは、報道内容は大阪市の小·中学校のコロナ対策としてのオンライン授業の現実性をめぐるものに限られていた。 ついに20日、は久保校長の抗議書簡全文を公開し、同氏のインタビュー記事を掲載する一方、松井市長の反応も報じた。 久保校長の主張は単に「対面授業正常化」にとどまらず、「過剰競争と点数中心の非人道的教育慣行に対する全般的な批判」であること..
[쿠보 다카시] 大阪市教育行政への提言(전문) 지난 5월17일, 일본 오사카시립 키가와미나미 초등학교의 쿠보 타카시(久保敬) 교장은 지금 오사카시의 교육행정이 일부 정치세력에 의해 장악되어 학교가 "인재라는 상품을 찍어내는 공장"으로 변했고, 아이들이 "시험점수에 따라 선별되는 경쟁에 노출"되어 있으며, 교사들도 "교육의 본질에 관한 일을 하지 못하고 ... 보람과 사명감을 잃고 일할 의욕마저 잃어가고 있다"고 주장했습니다. 쿠보 교장은 오사카시의 마츠이 이치로 시장에게 이라는 제목의 공개서한에서 이렇게 말하고, 앞으로 대대적인 교육개혁을 요구하면서, 일반 시민들에게도 연대 서명으로 동참해 줄 것을 요청했습니다. 쿠보 시장의 문제지적은 일본 교육계에서도 오래 비판받아온 문제였을 뿐 아니라, 의 공개적이고 제도적인 차별도 이러한 교육정책에서 나온 것으..
崔承喜のヨーロッパデビューは、パリの「サルプレイエル」公演 崔承喜のヨーロッパデビューは、パリの「サルプレイエル」公演 韓国人の姿を時代別、性別、年齢別、階層別にくまなく描写 「天下大将軍」や「身老心不老」など、朝鮮の社会批判作品も多数 「13個」の作品は「朝鮮13道」を示す象徴だったかもしれない。 ●趙正熙(チョ·ジョンヒ)PD、崔承喜研究家 私は2017年5月に崔承喜のヨーロッパデビュー公演パンフレットを発掘したことがある。 パリのオペラハウス図書館であり、公演があってからほぼ80年ぶりのことだった。 当時2,700部以上印刷されたはずのこのパンフレットは今まで他のどこにも発見されていないので、パリのオペラハウス所蔵本が唯一本として記録されるであろう。 このパンフレットにはヨーロッパを初めて訪問した韓国舞踊家崔承喜が詳細に紹介されていて、1939年1月31日パリの中心街にあるサルプレイエル劇場で発表された彼女の創作舞踊13個が簡略な作品説明..
18-3. 南益三氏埋葬認許証の本籍住所 3枚の埋葬認許証で朝鮮の縁故地を探すのが最も困難だったのが、南益三(ナム·イクサム)氏の場合だった。 金炳順氏の本籍住所は明らかで、若干の調査を通じて今日の位置をすぐに確認することができたし、張長守氏の埋葬認許証には朝鮮住所が記載されていなかったため、すぐに放棄するしかなかった。 しかし、南益三氏の埋葬認許証には朝鮮の住所が記録されているが、それが今日のどこなのかは分からない。 まず、彼の埋葬認許証を転載してみよう。 「認許証、第1号、 (本籍) 朝鮮 忠清道 春元右 連北面 先三村 (住所) なし (氏名) 南益三 生年月日不詳 37歳 右埋葬認許候事、但シ大正4年(=1915年)1月23日午後2時後ニ於テ行フベシ。 大正4年(=1915年)1月23日、川辺郡西谷村長 龍見隆一(印)。」 南益三氏は金炳順氏が死亡した翌年(1915年)1月に死亡した。 住所は記入されていないが、鄭鴻永..
18-2. 張長守氏の埋葬認許証の日本の住所 金炳順氏の埋葬認許証には詳しい朝鮮住所とおおよその日本の住所が両方記載されていたが、張長守氏の認許証には下記に転載されたように日本の住所は詳しく記入されている反面、朝鮮住所は全く記載されていなかった。 「認許証、第5号、 (本籍 住所) なし (住所)川辺郡西谷村内ノ玉瀬村イズリハ) 1번지의 45 (氏名)張長守、(生年月日) なし、 (歳)37歳 右埋葬認許候事、但シ大正3年(=1915年)3月24日午後2時後ニ於テ行フベシ。 大正4年(=1915年)3月24日、川辺郡西谷村長 龍見隆一(印)。」 鄭鴻永先生がこの認許証で注目したのは「イズリハ1番地の45」という玉瀬村の住所だった。 ここが張長守さんが居住していた住所地なら、朝鮮人労働者の合宿所(=飯場)だった可能性が高かったからだ。 鄭鴻永先生は「『イズリハ』が玉瀬から武田尾一帯の広い山間部を指す地名であり、「紅葉館」の住所は今..
18. 西谷村長発行の埋葬認許証 鄭鴻永先生が発掘したもう一つの重要な基礎資料が埋葬認許証である。 の第1部第1章によると、鄭鴻永先生がこの3枚の埋葬認許証を入手したのは1985年春だったという。 “私が神戸水道の建設工事にたずさわつた朝鮮人のことを初めて知り、調べるようになつた最初のきつかけは、宝塚市史編纂室に保存されていた古い埋葬認許証であつた。一九八五年の初めから春頃にかけて、私は当時まだ逆瀬川の宝塚市中央公民館二階の4室にあつた市史編纂室に何回となく足を運んだことがある。... “何度も通つているうちにそこに勤めておられた市史編集担當主査の若林泰さんと懇意になり、... ある日、取り立ててこれといつた用事もなかつたが、近くを通りかかつたので立ち寄つたところ、私の顔を見るなり若林さんは、「あ、鄭さん、ちょうどよかつたわ。連絡しようと思うてましたんや。こんなものがあつたんやけど何か参考になりますかいな」といつてコピ..
18-1. 金炳順氏埋葬認許証の本籍住所 鄭鴻永先生の「歌劇の街のもう一つの歴史:宝塚と朝鮮人(1997、17ページ)」には、1914年、神戸首都工事中に死亡した金炳順(キム·ビョンスン)、南益三(ナム·イクサム)、張長守(チャン·チャンス)氏の埋蔵認許証の写本が写真に収録されている。 だが、3枚の埋葬認許証が重なっているため、それぞれの人の記録が見られない部分があった。 こうした事情を知った近藤富男先生は、自分が保管している埋葬認許証のコピーを写真に撮って送ってくれた。 鮮明になった埋葬認許証のコピーを検討し、3人の縁故地を調査し始めた。 まず、日本語で書かれた金炳順氏の埋葬認許証の内容は次の通りだ。 「認許証、第4号、 本籍地、朝鮮江原道江陵郡北一里(プクイルリ)大天洞(テチョンドン) (住所)川辺郡西谷村内ノ玉瀬村(番地数戸数なし) (姓名)金炳順、1883年5月19日生 右埋葬認許候事、但シ大正3年(=1914年)8月..
17-4. 鄭鴻永先生による追加聞き込み調査 これまで福知山線鉄道改修工事中の事故を報道した1929年3月28日付の4紙の記事を几帳面に点検し、事故当時の状況と被害者の人的事項と朝鮮内の縁故地を整理してみた。 ところが、鄭鴻永先生は満足せず、1980年代まで生存していた地域の故老を対象に聞き込み調査を行い、その結果、次のような事項を明らかにした。 (1) 「何人かの地元古老の話から、事故で死んだ朝鮮人のことが次々に明らかになつた。きびしい労働に明け暮れていたある日のことであつた。工事現場の近くで濡れた火薬を焚火で乾かしていた時、突然爆発して三人の朝鮮人が即死した。見るも無残な姿になつた遺体を、いつしょに仕事をしていた大勢の同胞の工夫たちが桶や缶に入れて、木の元の地蔵尊の下まで担いできて薪を集めて火葬し、泣きながら野辺の送りをした。火葬がすんだあとも彼らはだれ一人として仕事に出ず、朝から酒ばかり飲んでいた。そして「アイゴー、アイゴー..