3枚の埋葬認許証で朝鮮の縁故地を探すのが最も困難だったのが、南益三(ナム·イクサム)氏の場合だった。 金炳順氏の本籍住所は明らかで、若干の調査を通じて今日の位置をすぐに確認することができたし、張長守氏の埋葬認許証には朝鮮住所が記載されていなかったため、すぐに放棄するしかなかった。
しかし、南益三氏の埋葬認許証には朝鮮の住所が記録されているが、それが今日のどこなのかは分からない。 まず、彼の埋葬認許証を転載してみよう。
「認許証、第1号、
(本籍) 朝鮮 忠清道 春元右 連北面 先三村
(住所) なし
(氏名) 南益三 生年月日不詳 37歳
右埋葬認許候事、但シ大正4年(=1915年)1月23日午後2時後ニ於テ行フベシ。
大正4年(=1915年)1月23日、川辺郡西谷村長 龍見隆一(印)。」
南益三氏は金炳順氏が死亡した翌年(1915年)1月に死亡した。 住所は記入されていないが、鄭鴻永先生は、西谷村長が認許証を発行していることから、他の2人と同様、玉瀬地域の労働者合宿所(=飯場)に起居していたと推定した。
「私はそれまでわかつたことをかいつまんで説明し、... 死亡者を年度別、本籍地別、現住所年令別に分類西谷玉瀬地区の年度本籍地別死亡者して表にまとめてみた。認許証に記入されていた現住所は、すべて玉瀬地区に限られたものであつた。
「玉瀬は西谷の八地区の一つであり、戸数、人口ともさほど多くはなく、年間の死亡者は平均して三人〜五人で、そのほとんどが老衰、病気によるものと思われた。しかし一九一四年から一七年にかけての死亡者が異常に多く、しかも本籍地が大分、愛媛、鳥取など地元以外の出身者二〇人すべてがこの時期に集中していた。その内訳は女性と子供が六人で、あとの一四人は一八才から四五才までの働き盛りの男性であり、その中に三人の朝鮮人が含まれていたのである。
「いくつかの資料の中から、千刈導水隧道に関する部分を抜粋して一覧表にしてみた。そうすると工事が行なわれた時期、場所、住所がピタリと符合し、死亡者が隧道工事によるものであるとを示していた。」 (鄭鴻永, 1997,
埋葬認許証に死亡理由が記載されていないが、鄭鴻永先生は状況証拠をすべて総合して、南益三氏もやはり神戸水道公社中の事故で死亡したことを確認したのである。」
また、鄭鴻永先生は生涯神戸水道に勤務した波豆に住む福本實二さん(当時75歳)にインタビューし、1910年代の神戸水道第1次拡張工事中に多くの朝鮮人が参加して働き、事故で死亡した人が多かったという証言を得た。
したがって、私は南益三氏の朝鮮縁故地を捜し出すことに集中することにした。 しかし問題があった。 南益三氏の住所から朝鮮という一番目の単語を除いては、まともに読みにくいほど草書体がひどく、かろうじて読解をしてもそのような名前の場所が朝鮮にないことが問題だった。
まず「道」から問題だった。 「「朝鮮」の次ぐ三文字を、ある人は忠清道、またある人は北海道と読んだ。北海道は朝鮮の領土ではなく、朝鮮には忠清南道と忠清北道があったが、忠清道という行政地名はずいぶん前に消えてしまった。 今も忠清南,北道を合わせて忠清道という言葉が使われているが、住所を言うためには常に忠清南,北道を区別しなければならない。
たとえそれが「忠清南,北道」を指すとしてもその次の3文字が問題だった。 最も近い読解は「春元郡」だったが、忠清南道と忠清北道にもそのような名前の郡はなかった。 「郡」単位で閉鎖されていたため、その下の「面」単位や(「里」単位はなかった)、「村」単位の名前は調査することすら考えられなかった。
可能な限り、すべての資料を動員して他の「道」にも「春元郡」を探したが、その名を持つ「郡」は朝鮮13道にはなかった。 同じ方法で「連北面」と「先三村」を探したが結果は同じだった。
私が南益三氏の朝鮮住所を読み始めたのは近藤先生から埋葬認許証のコピーをもらった2020年11月だったが、年を越して2021年4月になっても何の糸口もつかめなかった。
その間,私がこの住所を読んでくれと頼んだ人は20人ぐらいだった. その中には漢学者と古典文学者、歴史学教授と草書体専門家もいた。 さらに、日本の古文の草書体を判読するコンピュータープログラムまで動員した。 しかし、誰も住所を読み取ることができず、コンピューターも同じだった。
4月中旬頃に私はこの住所が間違った記録だと結論を下した。 6ヶ月間調査を行ったのに誰も読み取れなかったとすれば、それは住所が間違っていたと推定するしかない。
埋葬認許証の筆跡は非常に巧みな草書体だった。 ある草書体の専門家は、認許証の書体が日本式草書体だと確認してくれた。 つまり、朝鮮人が書いたものではないということだ。 肉体労働の仕事を求めて日本まで来なければならなかった貧しい朝鮮人は、このように上手な草書体を書くことはできなかっただろう。
だからこの埋葬認許証は日本人のインテリ、例えば西谷村役場の書記のような人が作成した書類に違いない。 書記が質問すれば下手でも日本語ができたはずの工事場の什長が認許証作成に必要な内容を答えてくれたはずだ。
問題は、いくら什長だとしても、死亡者の人的事項と住所をすべて知ることはできなかっただろう。 彼が生前に死亡者と交わした対話を通じて知った人的事項を答えるのに止まったのだろう。 南益三氏の場合、彼の生年月日を知っている同僚さえいなかったようだ。
朝鮮の事情を知らない日本人書記と死亡者をよく知らない朝鮮人什長の間の対話により認許証が作成されたとすれば、ここに記録された住所は信頼できない。
それで私は調査方法を変えることにした。 認許証に書かれた住所をきちんと読もうとする代わりに、「道」、「郡」、「面」、「里」、「村」の行政単位をすべて切り離してしまい、「春元」、「連北」、「先三」という固有名詞のみ調査した。 すると「春元」という地名があった。 それは「郡」ではなく「面」の名前で、「春元面」は現在の「慶尚南道統営市」を指す昔の地名だった。
その次に、古地図を見ながら「春元面」を探した。 2つの地図が「春元面」を記録している。 <地図2:慶尚道、全羅道(1884年)>と<八道地図抄本2(1770)>だった。 前者には統営と弥勒島が「春元面」、後者は今日の統営市だけが「春元面」と記されている。
私はこの2つの地図で「春元面」付近を隅々まで読んだ。 春元面の北側には光一面と光二面が見えた。 光三面もあるのだろうか. 地図には見えなかった。 他の資料を見ると、朝鮮中期には現在の安定と黄里地域が光三面で、その南側が春元面だったという。
1900年、この地域を鎮南郡に編成し、光三面はそのまま維持されたが、春元面は道南面に改称された。 1914年には鎮南郡が統営郡に変わり、光三面と道南面を合わせて光道面となった。 つまり、今日の統営市の中心部が1900年以前は「春元面」で、その北側に隣接した地域が「光三面」だったのである。
私が「光三面」に注目した理由は、ここに書かれた漢字「光」の字が簡単に「先」の字に間違えられるからだ。 言い換えれば、南益三氏の住所の最後に出てくる「先三村」は「光三村」の間違いであった可能性が非常に高い。
以上の、長く退屈な調査と推論を経て、私は南益三氏の住所が今日の<慶尚南道統営市光道面>である可能性が高いという結論に至った。 確認のためにこれらの地名を探してみたが、他の地域にはそのような名前はなかった。 「春元」や「光三」が独特な名前だからであろう。
したがって、南益三氏の縁故地は統営市光道面であり、そこは福知山線敷設工事の犠牲者の縁故地である慶尚南道固城郡固城面と非常に近いという事実も知ることができた。 (*)
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