これまで福知山線鉄道改修工事中の事故を報道した1929年3月28日付の4紙の記事を几帳面に点検し、事故当時の状況と被害者の人的事項と朝鮮内の縁故地を整理してみた。 ところが、鄭鴻永先生は満足せず、1980年代まで生存していた地域の故老を対象に聞き込み調査を行い、その結果、次のような事項を明らかにした。
(1) 「何人かの地元古老の話から、事故で死んだ朝鮮人のことが次々に明らかになつた。きびしい労働に明け暮れていたある日のことであつた。工事現場の近くで濡れた火薬を焚火で乾かしていた時、突然爆発して三人の朝鮮人が即死した。見るも無残な姿になつた遺体を、いつしょに仕事をしていた大勢の同胞の工夫たちが桶や缶に入れて、木の元の地蔵尊の下まで担いできて薪を集めて火葬し、泣きながら野辺の送りをした。火葬がすんだあとも彼らはだれ一人として仕事に出ず、朝から酒ばかり飲んでいた。そして「アイゴー、アイゴー」という泣き声が昼も夜も絶えることがなく、そんな日が何日も続いたという。」(『宝塚と朝鮮人』、1997、39頁)
鄭鴻永先生が収集した証言によると、ダイナマイト爆発事故による朝鮮人死亡者は3人だ。 これは4つの新聞記事が死亡者の数を2人と報じたこととは異なる。 事故発生とともに即死した尹吉文(ユン·ギルムン)さんと、病院に運ばれて死亡した吳伊根(オイグン)さんの他にも死亡者がいたという意味だ。 新聞は事故発生直後から48時間取材して報道したものだから、その後に死亡者が追加された場合、これを報道できなかったはずだ。 尹日善さんは後日の行績が記録されており、余時善/金時善/揚時春さんの負傷は軽傷だったので、さらに死亡した人は吳伊目さんである可能性が高いが、決定的な文献証拠が現れるまでは最終的結論を下すことは容易ではない。
(2) 「さらに何人かの聞き取りから、吉田飯場の頭がユンジェウ(尹在裕?)という人であつたことがわかつた。そして何時も工事現場で陣頭指揮をとり采配をふるつたのは、長男の通称吉田文吉と呼ばれたユン・イルスン(尹日善)であつた。彼は工事や飯場を取り仕切る世話役であつたが、人夫からは何時、も「中隊長」と呼ばれていた。事故で死んだ三人のうち二人は名前も年令もわからなかつたが、一人は尹日善の次弟であつたという。」(『宝塚と朝鮮人』、1997、40頁)
鄭鴻永先生は、別の聞き込み調査を通じて、ダイナマイトの事故現場で重傷を負ったが、命拾いした尹日善氏の父親がユン·ジェユ(尹在裕?)氏であることが分かった。 また、尹日善氏の日本式別名(=通名)は吉田文吉で、尹日善氏は尹在裕(?)氏の長男であることも明らかにした。 さらに、事故で死亡した尹吉文氏が尹日善氏の次弟だった事実も明らかにした。
また、鄭鴻永氏は、「事故で死亡した3人」という証言を集めた。 複数の地域故老がダイナマイト事故の死者が3人と記憶していたのだ。 事故で死んだ3人のうち2人は、名前も年齢も分からないという。 しかし、新聞報道によると、その匿名の死亡者2人のうち1人は吳伊根さん(25)だった。 言い換えれば、名前と年齢が分からないもう1人の死亡者がいたということだ。 これは今後の調査作業で忘れずに確認すべきことだ。
(3) 「武田尾から武庫川に沿つて廃線敷を歩いて三〇分くらいで、全長三五〇メートルの六号トンネルに着く。川の幅は武田尾から次第に広くなつていて、トンネルの少し手前あたりから急カーブを描いて右左に蛇行している。水はトンネルのすぐ横の川岸を洗うように流れている。鉄製のアングルかレールのような物を梯子状に組んで水際に固定してあるのは、川が増水した時の護岸用のように思えた。左側は山の急斜面が迫つていて落石の危険性も多い。あたりを注意深く歩いて見て、焚火をした場所が、トンネルの入口から五○メートル手前左側にあるコンクリート保護壁の奥の小さな広場らしいことがわかつた。ある新聞には「近くの小屋で炊事をしていた」升日善の妻が怪我をしたとなつているが、その「小屋」が工事飯場であつたのか、それとも休憩小屋を指すのかも不明である。また、列車が走つていた昼間にトンネル内部で発破を仕掛けるはずはない。それなればダイナマイトはいつたい何処に使うためのものだつたのか。また遺体を遠い木の元までどうして運んだのだろうか。それらの疑問を解く手がかりは何も残つていない。」(『宝塚と朝鮮人』、1997、42-43頁)
この文章は、鄭鴻永先生が武田尾地域を直接踏査して残した記録だ。 長尾山麓の新六号トンネルの入り口から約五十メートル前方の左側に小さな空き地があるのを発見した。 鄭鴻永先生氏は、ここが新聞記事が指摘した小屋「飯場」だったと推定した。 爆発が発生した入り口から50メートルほど離れていたので、ここで炊事の準備をしていた余時善/金時善/揚時春氏は、軽い顔面擦過傷を負うのに止まっていたのだ。
(4) 「尹日善の叔父は通称吉田一郎と呼ばれていたが、彼は惣川の部落ができた時からの生え抜きであつた。はじめは地元土建業者の世話役をしていたが、後に下請けになり河川、砂防、橋梁などの工事をした。旧武田尾駅前から武庫川に架かる「温泉橋」はー九三四年に竣工したが、そのあたりで聞き取りをしていた時に、この橋の工事を朝鮮人がしたことを「畑熊商店」の主人から聞いてはじめて知つた。橋の工事をしていた時飯場が向側の川原に二棟あつて、朝鮮人人夫が寝泊りしていたが、畑熊さんが何時も米、味噌、醤油を配達していたという。その飯場頭が生瀬から来ていた吉田一郎であつた。隧道、擁壁など鉄道関係の仕事がすんだ後も、尹日善は吉田飯場だけでなく生瀬一帯の朝鮮人の世話役として、大勢の人夫を引きつれて神戸水道拡張工事、六甲山系の砂防工事などの仕事を手がけた。」(『宝塚と朝鮮人』、1997、45頁)
鄭鴻永先生の聞き込み調査によるとダイナマイト爆発事故で死亡した尹吉文と長兄尹日善には吉田一郎という通名を持った叔父がいた。 つまり、尹日善と尹吉文の父親の尹在裕には男の兄弟がいたのだ。 彼の韓国式の名前は知られていないが、彼の日本式通名は吉田一郎だった。 そして通名に'一郎'という名前を使ったことからみて、おそらく長男で尹日善と尹吉文の父尹在裕はその弟だったのだろう。
(5) 「解放後の一九五二年、大多々川沿いの山を切り開いて新設された森組採石場建設工事を最後に、従弟の尹昌善に後を任せて生瀬をはなれ、森組の下請業者として京都府や奈良県下で多くの隧道工事にたずさわつたが、病に倒れ大阪の病院でトンネル工事に明け暮れた一生を終えた。現在惣川に従弟、京都と宝塚に娘が住んでいるが、生前一杯のむとチョンガー(独身)で死んだ弟のことを思い出してはよく涙を浮かべていたという。」(『宝塚と朝鮮人』、1997、45頁)
鄭鴻永氏は追加調査を通じて、尹吉文-尹日善兄弟の家族がさらにいたことを明らかにした。 つまり、尹日善には尹昌善(ユン·チャンソン)といういとこがいたということだ。 鄭鴻永先生によると、現在(=1990年代)も尹昌善が惣川に住んでおり、尹日善の娘たちは京都と宝塚に住んでいるという。
したがって、鄭鴻永先生の追加調査をまとめてみると、福知山線改修工事中のダイナマイト爆発事故で死亡した朝鮮人労働者は、尹吉文、吳伊根氏とその他の姓名と年齢不詳の1人を含めて計3人だった可能性があり、彼らのほとんどは慶尚南道固城郡固城面(キョンサンナムド·コソングン·コソンミョン)に家族単位で移住してきた移住労働者であった。
死亡した尹吉文氏の家族は、父親の尹在裕氏、伯父の吉田一郎氏、長男の尹日善氏と義姉の余時善/金時善/揚時春氏、そしていとこの尹昌善が皆一つの家族の構成員だったに違いない。そして, 彼らは、みな慶南固城出身だったに違いない。
一方、他の死亡者の吳伊根さんには吳伊目さんという兄弟がおり、新聞報道によると、彼らも慶南固城出身だったと考えるのが妥当だろう。
したがって、これら2家族に対する調査は2つの方向に進まなければならないことが分かる。 一方、韓国では慶南固城を中心に、尹吉文-尹日善-尹昌善、尹在裕-吉田一郞、そして余時善/金時善/揚時春の公式記録や系図記録を探すことだ。 また、同地域で、吳伊根-吳伊目氏の公式記録と系図記録を探索することも含まれる。
一方、日本ではダイナマイト事故以降、尹日善、尹昌善氏の痕跡を探り、尹日善氏の娘たちが宝塚と京都に住んでいたという証言をもとに、宝塚をはじめとする兵庫県や大阪、そして京都にかけて幅広い聞き込み調査を試みる必要があるだろう。 (*)
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