金炳順氏の埋葬認許証には詳しい朝鮮住所とおおよその日本の住所が両方記載されていたが、張長守氏の認許証には下記に転載されたように日本の住所は詳しく記入されている反面、朝鮮住所は全く記載されていなかった。
「認許証、第5号、
(本籍 住所) なし
(住所)川辺郡西谷村内ノ玉瀬村イズリハ) 1번지의 45
(氏名)張長守、(生年月日) なし、 (歳)37歳
右埋葬認許候事、但シ大正3年(=1915年)3月24日午後2時後ニ於テ行フベシ。
大正4年(=1915年)3月24日、川辺郡西谷村長 龍見隆一(印)。」
鄭鴻永先生がこの認許証で注目したのは「イズリハ1番地の45」という玉瀬村の住所だった。 ここが張長守さんが居住していた住所地なら、朝鮮人労働者の合宿所(=飯場)だった可能性が高かったからだ。 鄭鴻永先生は「『イズリハ』が玉瀬から武田尾一帯の広い山間部を指す地名であり、「紅葉館」の住所は今もイズリハ一番地の44であった」と述べた。
近藤先生が1993年3月26日の朝、鄭鴻永先生とともに堀内稔先生からもらった新聞記事のコピーを持って武田尾に向かう途中、"途中でお車を止めてコーヒーを飲みながら記事の内容を確認したという喫茶店兼食堂"も紅葉館ではなかっただろうか。
「紅葉館」は今も旅館/飲食店として営業中のようだが、特に「あざれ」という「紅葉館別庭」は予約率の高い高級温泉観光宿泊地である。 <あざれ>のウェブサイトには、ここの住所は「宝塚市玉瀬字イジリハ1-47番地」となっている。
当時の住所体系が現在と似ていたとすれば、朝鮮人労働者合宿所(1番地-45)は「紅葉館」(1番地-44)と「あざれ」(1番地-47)の間にあったことが分かる。 地図を見ると、武庫川辺いの「あざれ」と惣川辺の「紅葉館」は1キロメートルほど離れているが、その中間のある地点に張長守氏が住んでいた朝鮮人労働者合宿所があったということになる。
鄭鴻永先生は、「紅葉館」の女将松本文美さん(当時78歳)にインタビューし、朝鮮人労働者の合宿所と事故状況について尋ねた。 松本さんは「紅葉館」近くに大きな合宿所が2つあったが、1つは丘の上にあり、もう1つは武庫川辺いにあったという。
「朝鮮人はいたのか」という鄭鴻永先生の質問に対し、松本さんは「朝鮮人もいたようだ」と答えた。 「工事中の事故」について松本さんは、「トンネルでの発破事故で負傷者がかなり多かった」とし、「全身に石が刺さって、今日は3人、明日は5人というふうに血まみれになって、医師に運ばれていくのを何度も見たことがある」と話した。
インタビューを終えて鄭鴻永先生は松本さんが指摘したところを訪ねたが、「医者の住んでいた別荘のような建物もなく、飯場があったというのはテニスコート」になっていたという。 武庫川沿いの合宿所ビル跡にも何の痕跡もなかったが「その場所が4号トンネルが川向こうの水管橋の下の5号トンネル入口近く」であることを確認したという。
したがって、張長守氏が「あざれ」と「紅葉館」近くのイズリハ合宿所で起居したとすれば、彼が参加した工事現場は、鄭鴻永先生の観察通り、イズリハ付近の4号トンネル工事だったに違いない。 居住地と工事現場が同じ地域であるだけでなく、第4号トンネルの工事期間(1914年8月18日から1916年7月13日まで)張長守氏の死亡日(1915年3月24日)とも一致するからだ。 (*)
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