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조선인 추도비

18-1. 金炳順氏埋葬認許証の本籍住所

鄭鴻永先生歌劇のもうつの歴史:宝塚朝鮮人199717ページ)」には1914神戸首都工事中死亡した金炳順キム·ビョンスン)、南益三ナム·イクサム)、張長守チャン·チャンス埋蔵認許証写本写真収録されているだが3埋葬認許証なっているためそれぞれの記録られない部分があった

 

こうした事情った近藤富男先生自分保管している埋葬認許証のコピーを写真ってってくれた鮮明になった埋葬認許証のコピーを検討3縁故地調査めたまず日本語かれた金炳順氏埋葬認許証内容りだ

 

鄭鴻永先生の著書に載せられた3枚の埋葬認許証(左)と近藤先生が送ってくださった金炳順氏の埋葬認許証(右)。

 

認許証4

本籍地朝鮮江原道江陵郡北一里(プクイルリ)大天洞(テチョンドン)

住所川辺郡西谷村内玉瀬村番地数戸数なし

姓名金炳順1883519日生

右埋葬認許候事大正3(=1914)83日午後2時後フベシ

大正3(=1914)83川辺郡西谷村長 龍見隆一)。

 

金炳順氏埋葬認許証4というのは1914西谷村死亡して埋葬された4人目という意味だろう鄭鴻永先生調査によるとその西谷村死亡者15そのうち他地方出身者10だった金炳順さんは10外地出身死亡者一人だったのだ

 

南益三張長守氏埋葬認許証べて金炳順氏記録らかだった生年月日1883519死亡当時31だった最終住所地川辺郡西谷村玉瀬だった番地数はないがこの地域労働者合宿所=飯場最後住所だったはずだ

 

金炳順氏朝鮮本籍地住所明確だった。 「江原道江陵郡北一里大天洞されている191483作成された同住所今日住所えれば金炳順氏縁故地ねるかれることになる

 

朝鮮時代の<地図3(1884)>には江陵の主な地名として<北一里面>と<大昌駅>が記されている。

 

1914年以来江原道江陵郡行政区域きくわった191441から江陵郡北一里面北二里面そして南一里面わさって郡内面となり解放後195591行政区域改編郡内面江陵市浦南洞となった

 

浦南鏡浦南南村という意味この地域名前であるボレミ漢字表記したものであるその語源ボダ()+ナム()合成語だという語源通りにすれば<ボラム>になるべきだが江陵方言発音<ボレミ>になりまでえられてきた

 

1970年代以降浦南洞一帯人口密度急速増加199532行政区域整理する過程浦南1浦南2分離した2019年現在浦南洞人口3万人ほどでこの地域江陵市都心であり商圏中心地でもある

 

 

11884年の地図に記されている<北一里面>と<大昌駅>は現在の位置が<浦南洞>(右)と<校洞>(左)と推定できる。 <校洞>南側の<中央洞>と<玉泉洞>も<大倉里>に含まれているはずだ。

埋葬認許証本籍地住所最後'大天洞''大昌洞'ちとみられる朝鮮時代制作された<地図3(1884)>には江陵地域'北一里面''大昌驛'記録されているこれを現代地図せば北一里面はおおよそ今日'浦南洞'大昌驛'校洞''中央洞''玉泉洞'該当するだろう

 

この地域には統一新羅時代巨大幢竿支柱っておりその公式名称江陵大昌里幢竿支柱である幢竿支柱住所江陵市玉泉洞334番地であるがこれは校洞から非常校洞玉泉洞はいずれも朝鮮時代には大昌里」、植民地時代には大昌洞ばれた

 

このようにして金炳順氏縁故地江陵郡北一里面大天洞今日江陵市浦南洞校洞特定化することができた(*)

 

今日の江陵市の行政地域地図 (出典:ウィキペディア)