鄭鴻永先生の「歌劇の街のもう一つの歴史:宝塚と朝鮮人(1997、17ページ)」には、1914年、神戸首都工事中に死亡した金炳順(キム·ビョンスン)、南益三(ナム·イクサム)、張長守(チャン·チャンス)氏の埋蔵認許証の写本が写真に収録されている。 だが、3枚の埋葬認許証が重なっているため、それぞれの人の記録が見られない部分があった。
こうした事情を知った近藤富男先生は、自分が保管している埋葬認許証のコピーを写真に撮って送ってくれた。 鮮明になった埋葬認許証のコピーを検討し、3人の縁故地を調査し始めた。 まず、日本語で書かれた金炳順氏の埋葬認許証の内容は次の通りだ。
「認許証、第4号、
本籍地、朝鮮江原道江陵郡北一里(プクイルリ)大天洞(テチョンドン)
(住所)川辺郡西谷村内ノ玉瀬村(番地数戸数なし)
(姓名)金炳順、1883年5月19日生
右埋葬認許候事、但シ大正3年(=1914年)8月3日午後2時後ニ於テ行フベシ。
大正3年(=1914年)8月3日、川辺郡西谷村長 龍見隆一(印)。」
金炳順氏の埋葬認許証が第4号というのは、1914年に西谷村で死亡して埋葬された4人目という意味だろう。 鄭鴻永先生の調査によると、その年の西谷村の死亡者は15人で、そのうち他地方出身者は10人だった。 金炳順さんは10人の外地出身死亡者の一人だったのだ。
南益三、張長守氏の埋葬認許証に比べて金炳順氏の記録は明らかだった。 彼の生年月日は1883年5月19日で、死亡当時は31歳だった。 最終住所地は川辺郡西谷村の玉瀬だった。 番地数はないが、この地域の労働者合宿所(=飯場)が彼の最後の住所だったはずだ。
金炳順氏の朝鮮本籍地の住所も明確だった。 「江原道江陵郡北一里大天洞」と記されている。 1914年8月3日に作成された同住所を今日の住所に変えれば、金炳順氏の縁故地を訪ねる道が開かれることになる。
1914年以来、江原道江陵郡の行政区域は大きく変わった。 1914年4月1日から江陵郡の北一里面と北二里面、そして南一里面が合わさって郡内面となり、解放後の1955年9月1日の行政区域改編の際、郡内面は江陵市の浦南洞となった。
浦南は「鏡浦南の南村」という意味で、この地域の昔の名前である「ボレミ」を漢字で表記したものである。 その語源は「ボダ(見る)+ナム(南)」の合成語だという。 語源通りにすれば<ボラム>になるべきだが、江陵方言の発音で<ボレミ>になり今まで伝えられてきた。
1970年代以降、浦南洞一帯の人口密度が急速に増加し、1995年3月2日に行政区域を整理する過程で浦南1洞と浦南2洞に分離した。 2019年現在、浦南洞の人口は3万人ほどで、この地域は江陵市の都心であり商圏の中心地でもある。
埋葬認許証の本籍地の住所最後の'大天洞'は'大昌洞'の過ちとみられる。朝鮮時代に制作された<地図3(1884年)>には江陵地域に'北一里面'と'大昌驛'が記録されている。これを現代の地図に移せば、北一里面はおおよそ今日の'浦南洞'、大昌驛は'校洞'と'中央洞'と'玉泉洞'に該当するだろう。
この地域には統一新羅時代の巨大な幢竿支柱が残っており、その公式名称は「江陵大昌里幢竿支柱」である。 幢竿支柱の住所は「江陵市玉泉洞334番地」であるが、これは校洞から非常に近く、校洞と玉泉洞はいずれも朝鮮時代には「大昌里」、植民地時代には「大昌洞」と呼ばれた。
このようにして金炳順氏の縁故地「江陵郡北一里面大天洞」は今日の「江陵市浦南洞と校洞」に特定化することができた。 (*)
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