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18-3. 南益三氏埋葬認許証の本籍住所 3枚の埋葬認許証で朝鮮の縁故地を探すのが最も困難だったのが、南益三(ナム·イクサム)氏の場合だった。 金炳順氏の本籍住所は明らかで、若干の調査を通じて今日の位置をすぐに確認することができたし、張長守氏の埋葬認許証には朝鮮住所が記載されていなかったため、すぐに放棄するしかなかった。 しかし、南益三氏の埋葬認許証には朝鮮の住所が記録されているが、それが今日のどこなのかは分からない。 まず、彼の埋葬認許証を転載してみよう。 「認許証、第1号、 (本籍) 朝鮮 忠清道 春元右 連北面 先三村 (住所) なし (氏名) 南益三 生年月日不詳 37歳 右埋葬認許候事、但シ大正4年(=1915年)1月23日午後2時後ニ於テ行フベシ。 大正4年(=1915年)1月23日、川辺郡西谷村長 龍見隆一(印)。」 南益三氏は金炳順氏が死亡した翌年(1915年)1月に死亡した。 住所は記入されていないが、鄭鴻永..
18-2. 張長守氏の埋葬認許証の日本の住所 金炳順氏の埋葬認許証には詳しい朝鮮住所とおおよその日本の住所が両方記載されていたが、張長守氏の認許証には下記に転載されたように日本の住所は詳しく記入されている反面、朝鮮住所は全く記載されていなかった。 「認許証、第5号、 (本籍 住所) なし (住所)川辺郡西谷村内ノ玉瀬村イズリハ) 1번지의 45 (氏名)張長守、(生年月日) なし、 (歳)37歳 右埋葬認許候事、但シ大正3年(=1915年)3月24日午後2時後ニ於テ行フベシ。 大正4年(=1915年)3月24日、川辺郡西谷村長 龍見隆一(印)。」 鄭鴻永先生がこの認許証で注目したのは「イズリハ1番地の45」という玉瀬村の住所だった。 ここが張長守さんが居住していた住所地なら、朝鮮人労働者の合宿所(=飯場)だった可能性が高かったからだ。 鄭鴻永先生は「『イズリハ』が玉瀬から武田尾一帯の広い山間部を指す地名であり、「紅葉館」の住所は今..
18. 西谷村長発行の埋葬認許証 鄭鴻永先生が発掘したもう一つの重要な基礎資料が埋葬認許証である。 の第1部第1章によると、鄭鴻永先生がこの3枚の埋葬認許証を入手したのは1985年春だったという。 “私が神戸水道の建設工事にたずさわつた朝鮮人のことを初めて知り、調べるようになつた最初のきつかけは、宝塚市史編纂室に保存されていた古い埋葬認許証であつた。一九八五年の初めから春頃にかけて、私は当時まだ逆瀬川の宝塚市中央公民館二階の4室にあつた市史編纂室に何回となく足を運んだことがある。... “何度も通つているうちにそこに勤めておられた市史編集担當主査の若林泰さんと懇意になり、... ある日、取り立ててこれといつた用事もなかつたが、近くを通りかかつたので立ち寄つたところ、私の顔を見るなり若林さんは、「あ、鄭さん、ちょうどよかつたわ。連絡しようと思うてましたんや。こんなものがあつたんやけど何か参考になりますかいな」といつてコピ..
18-1. 金炳順氏埋葬認許証の本籍住所 鄭鴻永先生の「歌劇の街のもう一つの歴史:宝塚と朝鮮人(1997、17ページ)」には、1914年、神戸首都工事中に死亡した金炳順(キム·ビョンスン)、南益三(ナム·イクサム)、張長守(チャン·チャンス)氏の埋蔵認許証の写本が写真に収録されている。 だが、3枚の埋葬認許証が重なっているため、それぞれの人の記録が見られない部分があった。 こうした事情を知った近藤富男先生は、自分が保管している埋葬認許証のコピーを写真に撮って送ってくれた。 鮮明になった埋葬認許証のコピーを検討し、3人の縁故地を調査し始めた。 まず、日本語で書かれた金炳順氏の埋葬認許証の内容は次の通りだ。 「認許証、第4号、 本籍地、朝鮮江原道江陵郡北一里(プクイルリ)大天洞(テチョンドン) (住所)川辺郡西谷村内ノ玉瀬村(番地数戸数なし) (姓名)金炳順、1883年5月19日生 右埋葬認許候事、但シ大正3年(=1914年)8月..
17-4. 鄭鴻永先生による追加聞き込み調査 これまで福知山線鉄道改修工事中の事故を報道した1929年3月28日付の4紙の記事を几帳面に点検し、事故当時の状況と被害者の人的事項と朝鮮内の縁故地を整理してみた。 ところが、鄭鴻永先生は満足せず、1980年代まで生存していた地域の故老を対象に聞き込み調査を行い、その結果、次のような事項を明らかにした。 (1) 「何人かの地元古老の話から、事故で死んだ朝鮮人のことが次々に明らかになつた。きびしい労働に明け暮れていたある日のことであつた。工事現場の近くで濡れた火薬を焚火で乾かしていた時、突然爆発して三人の朝鮮人が即死した。見るも無残な姿になつた遺体を、いつしょに仕事をしていた大勢の同胞の工夫たちが桶や缶に入れて、木の元の地蔵尊の下まで担いできて薪を集めて火葬し、泣きながら野辺の送りをした。火葬がすんだあとも彼らはだれ一人として仕事に出ず、朝から酒ばかり飲んでいた。そして「アイゴー、アイゴー..
17-3. <朝日新聞>のダイナマイト爆発事故報道 以下は、東京の記録学専門家、功刀恵那先生が朝日新聞のデータベースを検索してご覧いただいた、『朝日新聞』東京版と大阪版の記事である。 二つの記事は大同小異であり、間違いや誤字まで同一であることから、一つの記事がほぼ異なる記事を転載したものと思われる。 (タイトルと小見出し)「ダイナマイト爆發/ 四名死傷す/ 寶塚奧のトンネル工事に/ 焚火で乾かすうち」 (記事本文)「二十六日午前八時半ごる兵庫寶塚奧の長尾山中福知山線六號トンネルの溝掘工事に使用するダイナマイト十本が氷結して使へなくなくつたので朝鮮人土工三名が金網の上にのせて焚火で乾かす內過つてその內の一本を火中に取落したため十本が轟然爆發し土工尹吉文一(21)吳伊根(25)の兩名は約二十間ほど刎ね飛ばされ身體はパラパラになつて慘死し、土工頭伊日善(25)は大腿部に重傷を負うて昏倒し、近くの小屋で炊事中の同人妻揚時善(19)は顔面に輕傷を..
17-2. ダイナマイト爆発事故を報じた「神戸又新日報」記事 以下は鄭世和先生が神戸中央図書館で見つけた1929年3月28日付けの『神戸又新日報』の記事全文である。 この記事も鄭鴻永先生の著書『宝塚と朝鮮人』の資料編にスクラップされていた。 そして『宝塚と朝鮮人』第1部2章の内容から見て、この記事は『神戸新聞』の記事とともに最も多く参照された基礎資料であると考えられる。 (タイトルと小見出し)「ダイナマイトが爆發し/ 四名その場で死傷/ 雷管を焚火で乾燥さした/ 長尾山トンネル入口の椿事」 (記事本文)「二十六日午前八時ごろ川邊郡西谷村桐畑長尾山第六号トンネル入口(神崎起点十五マイル東方)で省線福知山線の改修工事に従事中の朝鮮慶尚南道固城郡固城面鮮人尹吉文(21)、尹日善(25)、吳伊根(25)、金時善(19)の四名が巖石爆破作動中、ダイナマイトが氷結して爆破しないので、焚火をしてダイナマイトの雷管を乾燥しやうとしたところ、 「あやまつて雷管に引..
17-1. <神戸新聞>のダイナマイト爆発事故記事 下は鄭世和先生が神戸中央図書館で見つけた1929年3月28日付のの記事を転載したものである。 鄭鴻永先生の著書『歌劇の街のもう一つの歴史:宝塚と朝鮮人(1997)』の付録編にも載っているこの記事は、朝鮮人労働者2人が死亡し、3人が重軽傷を負った福知山線鉄道改修工事中に発生したダイナマイト爆発事故を報じたものである。 (タイトルと小見出し)「なんと横暴なことか!ダイナマイトを焚き火で乾かして2人が悲惨な死に方をし、3人が重傷を負う川辺郡鉄道トンネル工事現場の惨事」 (記事本文-段落番号は筆者が付けたもの)(1)「鉄道省線(=今日のJR)福知山線の改修工事に従事中の朝鮮慶尚南道生れ尹吉文(21)同尹日善(25)呉伊根(25)余時善(19)呉伊目の五名が、他の多数の鮮人土方と共に川邊郡西谷村桐畑長尾山第六号トンネル入口(神崎起点十五哩)で工事中、 (2)「この工事に使用するダイナマイトが氷結..