東京デビュー公演のため、崔承喜は16の作品を準備した。 この演目を収録したプログラムは2種類が伝わっている。 一つは公演当日に配布された小冊子形態のプログラムであり、もう一つはチラシ形式のプログラムだ。
筆者は小冊子を直接見たことがないが、この小冊子を撮った写真は参考にすることができた。 正方形の8面以上で構成されたと見られるこの小冊子の表紙は、笑顔の崔承喜の写真の上にフランス語筆記体で「崔承喜の初めての舞踊詩発表会(Le Première Récital du Poéme de la Dance de Sai Shoki)」とだけ書き、表紙には化粧品広告が載せられた。
小冊子の2ページからは舞踊家の崔承喜と彼女の舞踊作品に対する短い紹介や批評、そして公演を祝う挨拶が載っていた。 寄稿者は評論家の牛山充、音楽家の山田耕莋、舞踊家の石井漠など当代の専門家たちだったが、寄稿文の内容は写真の文字があまりにもぼやけて読みにくかった。
チラシ形態のプログラムは縦26センチ、横36センチの赤い色の紙に断面で印刷されたものだが、右上に崔承喜の舞踊試演写真が載せられ、続いて16演目が3部に分けて収録された。 左側には師匠石井漠の紹介文と崔承喜の挨拶が載っていたが、この中で石井漠の崔承喜紹介内容は次のようだった。
「崔承喜は朝鮮の生んだ唯一の舞踊芸術家であります。大正15年私の研究所に入り、一時家庭の事情で生地京城に研究所を開いたこともありますが、一貫して斯道に精進すること八年に及んで居りますので、今度私の研究所の主催で第一回の作品発表会を催すことになりました。
「私は、舞踊芸術を創作本位に考へて居るもわであります。よき舞踊手であるばれきでなく、よき舞踊創作家であることと、若い人達に望んで居るものであります。この意味で、昨年は石井英子の作品発表会を開き、今回、崔承喜の作品を皆様にお披露目できることを嬉しく思います。
「彼女は稀に見る勉強家であり、恵まれた体格とドラマティックな創意に卓越して居り、且又朝鮮郷土舞踊のよき踊手でもあります。この前途ある新人の門出に当り、一言彼女を紹介し、大方諸賢の御後援を切望する次第であります。” (石井漠)」
このチラシにも広告が掲載されたが、「世界的大社教場」というタイトルの下、カフェ<グランド銀座>、ダンスホール<銀座ダンスホール)>、<赤玉会館>、<花月園ダンスホール>の4店舗を紹介する広告文だった。
芸術舞踊公演のプログラムにダンスホールの広告が掲載されたのが多少突飛に見えるが、当時東京では芸術と芸能の区分が明確でない時であり、特に芸術舞踊と社交舞踊の熱風が日本全域を席巻していたことを考慮する必要がある。 すなわち、崔承喜と安漠は社交舞踊愛好者たちが芸術舞踊にも関心が深いだろうという推測でこのような広告を募集したものと見られる。
この中で一番最後に収録された花月園ダンスホールが筆者の関心を集めた。 花月園は1914年、横浜で一般人を対象に開業した日本初のダンスホールだからだ。 今は日本でも社交ダンスが当局の監視を受けるいわゆる風俗産業に転落したが、1920年代のダンスホールは外交官や貴族などの上流層が愛用していた社交場であり、1930年代にも文人や芸術家などの知識人たちと高位公務員や専門職従事者たちがダンスを楽しんでいたところだった。
日本初のダンスホールという歴史的な意味を持つ花月園が、崔承喜のデビュー公演プログラムに広告を出したというのは不思議なことだ。 この花月園の住所が出ておらず、これが横浜のまさにそのダンスホールなのか、あるいは名前が同じ東京市内の別のダンスホールなのかは確認されていない。
もしこれが横浜の花月園なら、このダンスホールの広告を取るために東京から横浜を往復したはずの安漠の手腕が目立つ広告といえる。 (jc, 2024/8/17)
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