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4-3. 西宮甲陽園地下壕の「朝鮮国独立」 1987年11月、神戸市西宮甲陽園の地下壕で、朝鮮人労働者が書いた壁書を発見した。 この深い地下トンネルの中の岩壁に「朝鮮国独立」と「綠の春」と書かれた文字が見つかった。 日本全域に散在する地下壕でそれを建設した朝鮮人労働者たちの壁書が発見されたのはこれが初めてだった。 松代の大本営地下トンネルの中から「密陽」と「大邱」、「セベ」と「九雲夢」という朝鮮人労働者の壁書が発見されたのもそれから約3年が経った後だった。 松代地下壕の壁書は、その意味について異なる解釈があることを指摘しておくべきであろう。 「密陽」と「大邱」などはそこの出身者が故郷を偲んで書いた文句に違いない。 しかし「新年のあいさつ」と「九雲夢」に対しては意見がまちまちだった。 その中で「1945年の新年を迎え、両親に新年のあいさつができない悲しみ」を表したという説明や、「金萬重(キム·マンジュン)が自分の母のために使ったと..
4-2. 松代大本営地下壕への修学旅行 近藤富男先生の「むくげ通信」(300号)への寄稿文には彼が鄭鴻永先生とともに踏査した史跡地が並んでいた。 その2人の協力と共同研究の性格を推測するためにその史跡地を調べてみた. 特に松代大本営と甲陽園の地下壕が私の注目を集めた。 松代大本営は長野県の山間地域に設置された大規模な地下バンカーだ。 敗色が濃くなった日本軍部が本土決戦のために天皇家族や軍指揮部(象山)、政府機関、NHK放送局(舞鶴山)、そして彼らに食べさせる食糧倉庫(皆神山)を収容するために作ったトンネルだった。 1944年11月11日から山間岩盤地域の地下を掘り下げたこの地下壕は、幅4メートル、高さ2.7メートル、総延長13キロメートルと計画された。 大型ダンプトラック2台が対向走れる大きさであり、日本敗戦により中断されるまでの9ヶ月間でほぼ10キロメートルが完工し、75%の進捗率を見せた。 太平洋戦争前の7.8キロメート..
4-1. 鄭鴻永さんとのこと (近藤富男, 2020.5.31) (こちらは近藤富男先生が『むくげ通信』300号(2020年5月31日)に掲載された寄稿文です。 『宝塚朝鮮人追悼碑』の建立過程が述べられているため、韓国語に翻訳し、ここには原文を転載しています。) 1983年秋のある日の放課後A中学校の職員研修会がもたれた。講師は鄭鴻永さん、校区内にすむ在日の地域史研究家である。その年の夏、武庫川が氾濫して鄭鴻永さんのすんでいた地域がほぼ全域、一階の天井近くまで水につかった。この地域は在日コリア人がおおくすむ地域だったのだが、それには理由があった。 1961年の夏、武庫川の河川敷には空襲罹災者や生活困窮者などおおくの人が居住していた。当然のことながらそこには、ほかに居住地をみつけるのが困難な状態におかれていたコリア人がおおかった。県は1958年から立ち退き勧告を繰り返し、1961年 4月には尼崎・西宮・伊丹・宝塚市の武庫川河川敷住人に対して立ち退き・建..
4. 近藤富男先生の「鄭鴻永さんとのこと」  2020年5月31日の「むくげ通信」300号に掲載された近藤富男さんの寄稿文のタイトルは「鄭鴻永(チョン·ホンヨン)さんとのこと」である。近藤富男先生が鄭鴻永先生と共にした40年の歳月を回顧した文だ。 1983年に初めて会った2人は20年間、宝塚地域の在日朝鮮人の歴史をともに調査し研究した。 2000年に鄭鴻永先生が他界した後は、近藤先生が鄭鴻永先生の遺志を受け継いでを建立するまで再び20年の歳月が流れた。 A4紙1枚分の寄稿文に、40年間の思い出づくりは不可能なことだ。 しかし近藤富男さんは無駄のない簡潔な筆致でその仕事をやり遂げた。 文章と文章の間に込められた思い出と感性の密度があまりにも高くて、読む人の心が渦巻く素晴らしい文章だった。 特に追悼碑の除幕式の直後、近藤先生も以前知らなかった鄭鴻永先生の墓碑文を発見した最後の部分を読みながら私は身の毛がよだつのを感じた。 日本語が下手..
3. 近藤富男さんの『むくげ通信』寄稿文 2020年3月26日、『宝塚朝鮮人追悼碑』が除幕された。 私は一昨日の除幕式に出席できなかった. 行きたかったが、コロナ19の国際防疫が厳しくなり、旅行が難しくなったからだ。 そのうえ、その頃日韓両国の間に発生した貿易紛争の影響が重なり、自由だった韓国人の日本旅行にもビザが必要になった。 ソウルの日本大使館が定めた訪問ビザ発給条件が厳しかったため、しばらくの間、日本旅行は不可能になった。 そのため「崔承喜の後続調査」は中断されたが、それはさほど問題ではなかった。 すでに1年半の間、収集してきた資料は膨大なため、それを読んで整理するにも多くの時間を要した。 むしろ休み時間ができたわけだから速度調節ができてよかった。 にも差し支えはなかった。 鄭世和先生が日本で全てのことをうまく仕切ってくれたからだ。 神戸と四国の朝鮮学校に舞踊靴が伝わったという噂が広まり、鄭世和先生に「うちの学校にも舞踊..
2. 舞踊靴キャンペーンと宝塚朝鮮人追悼碑 2019年11月、在日朝鮮学生中央芸術競演大会を参観し、朝鮮学校舞踊部への私関心が高まった。 舞踊部を運営する朝鮮学校がどれほどなのか、舞踊部の学生は何人になるのか、どのように練習して訓練を受けるのか、作品はどのように創作され公演されるのか、などなどが皆気になった。 大阪にいた五日間、鄭世和先生は私の疑問をかなり解いてくれた。 鄭世和先生も私の崔承喜研究についていろいろとお聞きになったが、これまでの国内調査とヨーロッパ調査、そしてそれまでの日本調査で明らかになった事実を精一杯申し上げた。 そうするうちに私たちは意気投合し、一つ約束をした。 互いに助け合おうという約束だった。 鄭世和先生は、私の崔承喜調査研究を助けると言って、私は在日朝鮮学校を助ける方法を模索することにした。 翌年(2020年)1月初め、私が再び神戸を訪れた時から、鄭世和先生は約束を守り始めた。 在日朝鮮舞踊家たちを紹介..
1.鄭世和(チョン·セファ)先生に会う 私が兵庫県の宝塚に埋められた5人の朝鮮人労働者の話を初めて聞いたのは、2019年11月初めに大阪であった。 兵庫県伊丹市に居住する在日同胞写真家鄭世和(チョン·セファ)先生からだった。 1910年代と20年代にあった同地域の土木工事中に事故で死亡した朝鮮人を追悼する碑石が立てられるという話を初めて聞いたのだ。 しかし、その時、私が追悼碑の話に耳を傾ける心の状態ではなかった。 在日朝鮮人の慰霊碑や追悼碑に対する先知識もあまりなかったし、何より当時私は舞踊家の崔承喜(チェ·スンヒ)先生に夢中になって、彼女が1930年代、日本各地で行った朝鮮舞踊公演を調査しているところだった。 それより2年ほど前の2017年5月、私は崔承喜先生のヨーロッパ公演を調査して取材記を書いたことがあり、その連載が終わるとすぐに日本公演の調査を始めた。 その後1年半の間、私は北海道の釧路から沖縄の那覇に至るまで、崔承..
1. 崔承喜の舞踊留学、初の単独報道は『京城日報』 「舞踊芸術家の目に留まった崔承喜さん。」 1926年3月26日付けの『每日申報』の2面に掲載された記事の見出しです。 この記事がいわゆる「崔承喜(チェ·スンヒ)現象」の出発点だと言われてきました。 日帝強制占領期が終わるまで20年間、崔承喜という名前は、朝鮮と日本全域に広がりました。 「中国や台湾、沖縄はもとより、南北の米州や欧州のメディアからも注目を集めました。 朝鮮が解放された後、韓国メディアからは彼の名前が削除されましたが、北朝鮮では大々的に広がったはずです。 1950年代から60年代にはソ連や東欧諸国でもその名に熱狂しました。 崔承喜ほとんどの評伝は『每日申報』のこの記事がチェ·スンヒの名前が新聞に報道された初の記事だと述べてきましたが、それは事実ではありません。 『每日申報』より前日の3月25日に崔承喜を報道した新聞がありました。 『每日申報』の姉妹紙であり、朝鮮総督府の機関..