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조선인 추도비

4-1. 鄭鴻永さんとのこと (近藤富男, 2020.5.31)

(こちらは近藤富男先生が『むくげ通信』300号(2020年5月31日)に掲載された寄稿文です。 『宝塚朝鮮人追悼碑』の建立過程が述べられているため、韓国語に翻訳し、ここには原文を転載しています。)


1983
年秋のある放課後中学校職員研修会がもたれた講師鄭鴻永さん校区内にすむ在日地域史研究家であるその武庫川氾濫して鄭鴻永さんのすんでいた地域がほぼ全域一階天井近くまでにつかったこの地域在日コリアがおおくすむ地域だったのだがそれには理由があった

 

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このとき宝塚市があっせんしたのが上記土地だったのであるしらべてみるとこの地域土地武庫川川底よりいことがわかった武庫川があふれるときには必然的につかる土地だったのである職員研修会のなかで鄭鴻永さんはこれはあきらかに人災だとえられたただそのはひかえめといってもよいくらいおだやかでしかししずかにしっかりとした事実をつきつけてきくにうったえるをもつものだったこのときのひとがらにひきつけられわってから連絡先交換した

これ以後わたしは鄭鴻永さんの金魚した

 

 

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そのだったのである記事尹吉文(21)即死呉伊根(25)病院にはこばれる途中死亡尹日善(25)とその余時善(19)ほかが重軽傷をおったことをじていた場所川辺郡西谷村桐畑長尾山第六号トンネルとなっていた

 

 

せずして命日現場をおとずれることになったこのにふたりだけでこころばかりの祭祀をおこなった6 トンネルまでは現在武田尾駅からあるいて20はれていれば武庫川のせせらぎのおとにまじってウグイスのなくこえがきこえるまったくもちのよいみちである

 

みじかいトンネルをふたつぬけると宝塚市整備した(水上勉櫻守有名)である右手には親水広場となづけられた広場があるがここに当時飯場があったであろうと推察した武庫川がおおきく湾曲したところまでくると6 トンネルとその右側武庫川をわたっている緑色鉄管えてくる神戸市まで飲料水をはこんでいる神戸水道地上にすがたをあらわしたものである上流られた千刈水源地からはるか神戸市まで

 

だいたいおとなひとりってあるけるぐらいの隧道々つづいていて1910 年代からとぎれることなくをおくりつづけているというものであるがはこの隧道掘削工事中にも金炳順(30)南益三(37)張長守(27)三人朝鮮半島からきてはたらいていたくなっていることが旧西谷村役場発行埋葬認許証によってあきらかになっている

 

 

 

毎年326にはかかさずここをおとづれて、6トンネルのちかくで簡単祭祀をもってきたはじめはふたりだけでときにはよびかけておおぜいのひとにあつまってもらって2000 1 18 鄭鴻永さんがくなってからはひとりでいったことも何度かある鄭鴻永さんがいくたびにっていたのはこの事実後世にのこすをたてたいということであった

 

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鄭鴻永さんの 『歌劇の街のもうひとつの歴史-宝塚と朝鮮人(1997)』 出版紀念會

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電話であらましをきいてすぐ訪問約束をし26にうかがってくわしくおはなしをきいた

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中国人朝鮮人強制連行強制労働をかんがえる全国集会松江へいったとき伯備線特急列車のボックス鄭鴻永さんが統一されるまではふるさとである韓国にはいかないといっていたことがいまもこころにのこっている