『大金剛山の譜』の監督と俳優の水準が期待に及ばなかったとしても、崔承喜がこれを拒否するわけにはいかなかった。 日本の映画制作システムは、スタジオ体系を備えた大手映画会社が監督と俳優を専属雇用してプールを作り、制作映画に応じて監督と俳優を振り分けるといった具合だった。 崔承喜でさえ、『大金剛山の譜』に出演するために日活映画社の雇用契約書にサインしなければならなかった。
したがって、崔承喜がいくら著名な芸術家だとしても、雇用主である大手映画会社の決定を拒否したり、覆すことはできなかった。 しかも、早期に映画を完成するためには、過程が不満でも、映画会社が指名した監督、俳優たちと協力して撮影をしていかなければならなかった。
不幸中の幸いといえば、監督と俳優たちとは違い、日活映画社が指名した『大金剛山の譜』の撮影スタッフは抜群だった。 とくに撮影監督横田達之は伝説的なカメラマンで、1921年の『浮き沈み』から1961年の『釈迦』まで、生涯114本の映画とドキュメンタリー、その他のフィルムを撮影したベテラン撮影監督である。
彼が撮影した映画の中には、日本映画史に記録される作品も少なくない。 彼が日活映画社の京都撮影所で活動していた時代は、伝説的な監督溝口健二とコンビを組んで傑作を量産した。
'女性映画の巨匠'と呼ばれた溝口健二監督は、1952年から連続して3年ベネチア映画祭の国際賞(『西鶴一代女』)、サン·マルコ銀獅子賞(『雨月物語(1953)』と『山椒大夫(1954)』)を受賞し、国際的にも注目される映画監督だった。 特に1953年の『優越物語』は金獅子賞該当作のない、事実上の最高賞受賞作である。
溝口健二監督と横田達之撮影監督は関東大震災以降、京都の日活映画社で出会い、共同で活動しながら『愛を断つ斧(1924)』から『楊貴妃(ヤン貴妃、1955)』に至るまで30年以上もの間、28本の映画を製作したことがある。
ところが『大金剛山の譜』の完成に寄与したもう一人の優れた撮影監督がいた。 日本のドキュメンタリーの嚆矢と言われる、『雪国(1939)』の撮影監督、李炳宇(イ·ビョンウ)だった。
日本で井上莞という名で活動していた李炳宇は1920年代、日本で社会主義映画運動に参加したこともあるが、1935年からは『芸術映画社』に身を置き、芸術映画やドキュメンタリー映画の製作に没頭した。 『空の少年兵(1941)』は彼の初期の代表作の一つであり、この映画はフランス国立図書館にも所蔵されているほどである。
1938年5月14日の『毎日申報』は「朝鮮映画株式会社第1回作品『無情』の撮影のため、10日に東京芸術映画社の重鎮カメラマン、李炳宇氏が入城」したと報じ、「数年前には鉄道局から招聘され、観光映画を製作したこともある名カメラマン」と紹介した。
李炳宇が撮影したという観光映画は『朝鮮の旅(1935)』だった。 この映画は朝鮮全国の名勝地を詳しく紹介しているが、その撮影担当が李炳宇だったのだ。
1938年5月18日の『朝鮮日報』も同じニュースを伝えながら、李炳宇氏が「1932年『河向らの靑春』を撮影し、断然映画界に頭角」を出した後、「3年前は朝鮮鉄道局の招待を受けて『朝鮮の旅』という朝鮮風景紹介映画を撮影」したと説明しながら、「この時撮影した場面で崔承喜女史が主演した『大金剛山の譜』に利用したものは少なくない。
つまり、『大金剛山の譜』には李炳宇撮影の『朝鮮の旅』の場面が多く編集されて含まれているのである。 2つの映画がいずれも鉄道局が後援した作品だったから可能なことだったのだろう。
こうして『大金剛山の譜』は、当代最高の撮影監督横田達之と、日本映画リアリズムの先駆者でありドキュメンタリー映画の権威である李炳宇の作品が並びコラボをなし、少なくとも映像面では優れた映画になる可能性を見せたのである。 (*)
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