본문 바로가기

최승희 이야기

[대금강산보] 11. 『大金剛山の譜(1938)』と『朝鮮の旅(1935)』

大金剛山監督俳優水準期待ばなかったとしても崔承喜がこれを拒否するわけにはいかなかった日本映画制作システムはスタジオ体系えた大手映画会社監督俳優専属雇用してプールを制作映画じて監督俳優けるといった具合だった崔承喜でさえ、『大金剛山出演するために日活映画社雇用契約書にサインしなければならなかった

 

したがって崔承喜がいくら著名芸術家だとしても雇用主である大手映画会社決定拒否したりすことはできなかったしかも早期映画完成するためには過程不満でも映画会社指名した監督俳優たちと協力して撮影をしていかなければならなかった

 

不幸中いといえば監督俳優たちとは日活映画社指名した大金剛山撮影スタッフは抜群だったとくに撮影監督横田達之伝説的なカメラマンで1921から1961釈迦まで生涯114映画とドキュメンタリーそののフィルムを撮影したベテラン撮影監督である

 

『 大金剛山 の 譜 』の撮影監督は、日本映画の秀作『釈迦』(1961)の撮影を担当した横田達之だった。

 

撮影した映画には日本映画史記録される作品なくない日活映画社京都撮影所活動していた時代伝説的監督溝口健二とコンビをんで傑作量産した

 

'女性映画巨匠'ばれた溝口健二監督1952から連続して3ベネチア映画祭国際賞(西鶴一代女)サン·マルコ銀獅子賞(雨月物語(1953)山椒大夫(1954))受賞国際的にも注目される映画監督だった1953優越物語金獅子賞該当作のない事実上最高賞受賞作である

 

溝口健二監督横田達之撮影監督関東大震災以降京都日活映画社出会共同活動しながら(1924)から楊貴妃(ヤン貴妃1955)るまで30年以上もの28映画製作したことがある

 

ところが大金剛山完成寄与したもう一人れた撮影監督がいた日本のドキュメンタリーの嚆矢われる、『雪国1939)』撮影監督李炳宇·ビョンウだった

 

日本井上莞という活動していた李炳宇1920年代日本社会主義映画運動参加したこともあるが1935からは芸術映画社芸術映画やドキュメンタリー映画製作没頭した。 『少年兵(1941)初期代表作つでありこの映画はフランス国立図書館にも所蔵されているほどである

 

1938514毎日申報朝鮮映画株式会社第1回作品無情撮影のため10東京芸術映画社重鎮カメラマン李炳宇氏入城したと、「数年前には鉄道局から招聘され観光映画製作したこともあるカメラマン紹介した

 

『 大金剛山 の 譜 』には、李炳宇(イ·ビョンウ、井上莞)が撮影した『朝鮮の旅(1935)』の場面が多数含まれている。 写真は李炳宇の代表作『空の少年兵(1941)』の一場面。

 

李炳宇撮影したという観光映画朝鮮1935)』だったこの映画朝鮮全国名勝地しく紹介しているがその撮影担当李炳宇だったのだ

 

1938518朝鮮日報じニュースをえながら李炳宇氏1932河向らの靑春撮影断然映画界頭角した、「3年前朝鮮鉄道局招待けて朝鮮という朝鮮風景紹介映画撮影したと説明しながら、「この時撮影した場面崔承喜女史主演した大金剛山利用したものはなくない

 

つまり、『大金剛山には李炳宇撮影朝鮮場面編集されてまれているのである2つの映画がいずれも鉄道局後援した作品だったから可能なことだったのだろう

 

こうして大金剛山当代最高撮影監督横田達之日本映画リアリズムの先駆者でありドキュメンタリー映画権威である李炳宇作品びコラボをなしなくとも映像面ではれた映画になる可能性せたのである(*)