崔承喜が師匠である石井漠の娯楽舞踊に対する認識と態度を大部分受け入れたが、レビューに対してだけは師匠と違って開かれた態度を堅持したという点は、彼女がよく野外舞踊を試みたことからも確認できる。
石井漠も劇場を離れて野外舞踊を試みたことはあった。 石井漠舞踊団は1926年7月に東京日比谷野外音楽堂で公演を行ったことがあり、北海道巡回公演の途中だった同年8月には札幌の中島公園の野外舞台で公演したことがある。 しかし、石井漠の野外舞踊は、劇場での舞踊公演を野外舞台に移したという点で、あまり大きな違いはなかった。
しかし、崔承喜の野外舞踊は舞踊公演というよりは野外舞踊写真撮影会で行われたりもした。 すなわち、崔承喜が野外であらかじめ選曲した作品を上演する間、有料入場したアマチュアおよびプロ写真家たちがチェ·スンヒの舞踊動作を自由に写真を撮ることだった。
最初の崔承喜野外舞踊撮影会は1934年8月に鎌倉由比ヶ浜で行われた。 第1回東京発表会を1ヶ月後に控えた時点で、崔承喜は東洋写真工業社が主催した写真撮影会に出演した。 この撮影会で撮影された崔承喜の姿の中で桑原甲子雄の作品が2等に入選された後、彼の写真集に収録され今まで伝えられている。
2回目の野外舞踊撮影会は1935年10月6日、東京近郊の奥多摩渓谷で行われた。 ライカカメラ社が主催したこの撮影会には北海道から九州に至る日本全域で申込者を受け付け抽選で280人を選定して進行されたが、唯一の条件はライカカメラを所持した撮影者だけがこの撮影会に参加できるということだった。 この撮影会の姿は「写真新報」1935年11月号に10枚が収録されており、1936年5月号には25人の入選者名簿が載せられた。
1935年11月10日、宝塚野外舞台で行われた撮影会が3回目に確認された崔承喜の野外舞踊撮影会だった。 前日の大劇場公演以後、相次いで開かれた撮影会には1200人が入場し、以前の由比ヶ浜と奥多摩撮影会に比べて参加者規模が最高だった。
宝塚野外舞踊撮影大会の入場券の価格が1円だったが、これは前日の大劇場公演一般入場券(50銭)より2倍も高い価格だった。 このため、野外舞踊撮影大会の入場料収入は最高1,200円で、前日の大劇場(3500人)公演の入場料収入940円を上回った。 大劇場公演の入場料は特別席300席は1円、一般席3200席は50銭だった。
この野外舞踊撮影大会は11月10日の午前10時と午後1時に2回に分けて進行されたが、1,200人の入場客が2回の撮影会を合わせた数字なのか、あるいは各々1,200人が入場したということなのかは確実ではない。 もし午前10時と午後1時の入場客がそれぞれ1,200人だったとすれば、崔承喜撮影会の入場客は最大2,400人であり、入場料収入は2400円と推算される規模だ。
1935年の宝塚公演収入(940円)と野外公演撮影会収入(1200円)の現在価値はどれくらいだろうか? 今日(2024年)宝塚大劇場公演の入場料は特別席(S)が8,800円、一般A席が5,500円、一般B席が3,500円だ。 1935年の一般席入場料50銭が2024年に一般席入場料平均4500円、特別席入場料1円が今日の8800円になったのだ。
したがって、当時の崔承喜公演と野外公演撮影会の入場料収入の合計2,140円は、今日の約2千万円、韓国ウォンでは約2億ウォンに当たる。
入場料収入が当時の慣行どおり劇場が60%、公演者が40%の比率で配分されたとすれば、崔承喜の公演収益は約800万円、ウォンで8千万ウォンに達し、2023年韓国の300人以上の大企業の正規職大卒者初任年俸5千万ウォンの1.6倍に達する収益だ。
崔承喜が宝塚大劇場公演の提案を受け入れたのは、レビューに対する肯定的な美学的理由というよりは、2日間8千万ウォンの収益が保障されたためかもしれない。 (jc, 2025/3/19)
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