崔承喜の東京デビュー公演3部の4番目の演目は<小供の世界(2)>だった。 1部でも<小供の世界(1)>という演目の下、<戱れ>と<ヨチヨチ踊る>の2作品が上演されたが、3部でも次のような子供舞踊の2作品がさらに発表された。
15. 小供の世界(2)
A。 新しい帽子、ユーマン作曲、汁本愛子
B。 僕達は、シューベルト作曲、石井静子、鹿金貞子、榎本梢子、木内仲子、長屋陽子、市木須美、速水明子,手貝田鶴子,清野照子
残念ながら1部の「戱れ」と「ヨチヨチ踊る」と3部の「新しい帽子」の伴奏音楽をまともに明らかにできなかった。 作曲者がユーマンと明示されたが、彼が誰なのか捜し出すことができなかった。 シユーマンの誤字脱字かも知れないと推定し、彼の子供音楽を調べてみた。
さすがにロバート·シューマン(Robert Alexander Schumann、1810-1856)は多くの子供音楽を作曲した。<子供の情景(Kinderszen、Op.15、1838)>と<子供のためのアルバム(Album für die Jugend、Op.68、1848)>は子供のためのピアノ組曲だ。しかし、この組曲の作品の中には「戱れまた作亂」、「ヨチヨチ踊る」、「新しい帽子」と関連する題名の作品がなかった。
特にシューマンの名曲として知られている『子供の情景』は、彼が幼い頃を回想しながら作曲した30曲のピアノ小品の中から12曲を選別し、1曲を追加で作曲して計13作品として出版したものだが、ここに抜けている作品の一部が『色とりどりの木の葉(Bunte Blätter、Op.99、1850)』と『木の葉アルバム(Albumblätter、Op.124、1853)』に収集されたため、この作品集も調査したが崔承喜と関連する作品の作品はなかった。
<僕達は>がフランツ·シューベルト(Franz Peter Schubert、1797–1828)の作品だと明示されたため、630曲に及ぶ歌曲とピアノ音楽を調査したが、崔承喜の<僕達は>と関連して見える作品は発見されなかった。
おそらく崔承喜はシューマンとシューベルトのピアノ曲を聞きながら、楽曲のタイトルとは関係なく浮上したインスピレーションによって舞踊作品を振り付け、自分が受けた印象によってタイトルを付けたものと見られる。
これに先立って石井漠と崔承喜が子供舞踊に関心を持つようになったのが山田耕作の子供音楽のおかげだと叙述したが、彼らに子供舞踊に対する関心を高めた人がもう一人いた。 教育家の手塚岸衛、1880-1936)だった。
1922年12月、石井漠が欧州に向かう旅客船「北野丸」で、日本自由教育の創始者と呼ばれる手塚岸衛に会った。 二人は40日の航海期間、ほぼ毎日会って数時間ずつ話し合いながら自由教育を討論し、後にこのために協力することを約束したという。 手塚岸衛は、石井漠のベルリン滞在期間中に彼を訪れたこともある。
1924年、石井漠が東京に戻ると、手塚岸衛は武蔵境の舞踊研究所を訪れ、2人が船上で討論した理論の実践のために、自分は小学校を、石井漠はそれに隣接して舞踊研究所を設立しようと提案した。 二人が船上の約束を実践するために学校と舞踊研究所を並んで設立したのがまさに今日の自由が丘だ。
手塚岸衛と協力し、石井漠は生徒たちの健康のための舞踊体操に関心を持ち、全国の小学校に舞踊体操を普及させた。 崔承喜は時には石井漠の補助講師として全国から集まった舞踊体操教師たちを教育する役割を担当したりもした。
このような経験が石井漠と崔承喜が子供舞踊に関心を持つようになった直接的な契機になり、実際に多くの子供舞踊を振付して発表できたものと見られる。 (jc, 2024/8/27)
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