崔承喜の東京デビュー公演3部の最後であり、全体公演の最後の作品は群舞<ロマンスの展望>だった。 プログラムには『ロマンスの展望』が次のように紹介された。
16. ロマンスの展望, ベートベン曲, 渡部曙, 甲斐富士子, 寒水多久茂, 金敏子, 崔承喜, 石井美笑子, 山崎龍子, 石井靜子
人生を彩る戀...樂しく甘い戀、惱ましき片想ひ、靑春の希望と哀愁、少年時代の初戀、苦難を越えて結ばれる二つの心臟... さういつた樣々なロマンスの展望
<ロマンスの展望>は8人のダンサーが出演した群舞だった。 1部の<生命の踊り>が8人が出演した群舞で、3部の<小供の世界(2)>の<僕達は>も9人の群舞だったが、<ロマンスの展望>は最も華やかで規模が大きい作品だった。
出演した8人には、寒水多久茂と石井美笑子、石井静子と甲斐富士子など石井漠の手作り者級ダンサーたちが大挙含まれ、何よりも崔承喜自身がこの作品に出演した。
「ロマンスの展望」は東京デビュー公演のために振り付けされ発表されたものと見られる。 崔承喜の以前の作品の中に「ロマンス」という言葉が言及されたのは<彼らのロマンス(1931)>と<私たちのロマンス(1932)>があるが、<彼らのロマンス>は<希望を抱いて>に改作された。
同じ方式で<私たちのロマンス>は<ロマンスの展望>に改作されたのではないかと推測されたが、<私たちのロマンス>も<彼らのロマンス>のように男女の2人舞であり、男の役割を崔承喜が担当したという点で共通するため、この二つの作品はタイトルが別に表記された同じ作品と判断される。 それなら群舞「私たちのロマンス」は東京デビュー公演で初演されたものと断定できる。
「ロマンスの展望」の伴奏音楽はベートーベン(Ludwig van Beethoven、1770-1827)が作曲した作品だと明らかにしたが、おそらく「ロマンス1番(Op.40、1802)」と「ロマンス2番(Op.50、1798)」の中で「2番」だった可能性が高い。 『2番』は『1番』より先に作曲されたが、出版が遅れただけで、旋律が大衆的により広く知られているためだ。
しかも「ロマンス2番」はベートーベンが聴力を失っているということを認識しながらも、これを克服することを決心した直後に作曲された作品だ。 彼は1797年のウィーン滞在時期に病気と過労に苦しめられ、初めて自分の聴力に問題があることを知り、1798年にはプラハ旅行中に聴力がほとんど失われ演奏旅行をあきらめた。
ベートーベンは聴力を失うことが音楽家には死刑宣告に他ならないと思いながら絶望したが、すぐに耳が聞こえなくても作曲は可能だと心を入れ直した。 その直後に作曲したのが『ロマンス2番』だ。
崔承喜がベートーベンの「ロマンス2番」を自身の東京デビュー公演のフィナーレ作品に使ったことにはまた別の意図があったと見られる。 聴力を失った挫折感を乗り越えたベートーベンの音楽を舞踊作品で構成し、視力喪失の危機を克服した師匠石井漠に献呈したのかもしれない。
石井漠は1929年4月、九州巡業を終え、次の公演地である島根県の松江に向かう途中、急性虹彩炎で視力を失い始め、その後数ヵ月間、視覚障害を経験した。
石井漠はこれに屈せず、助けを借りて舞台に立つこともあり、今後の新しい舞踊の形式を構想しながら失明の危機を克服した。 その直後に創作された作品が「生命の叫び(1930)」として1930年6月に日本青年館で初演されていた。
独立舞踊家として新しく出発することになった崔承喜には聴力を失ったベートーベンの最も美しい歌を舞踊で振り付け、舞踊団の同僚たちと共にフィナーレの作品として上演することにより、視力喪失を克服した師匠石井漠に対する尊敬と感謝を示したものと見られる。 (jc, 2024/8/28)
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