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도쿄1934공연

【東京1934公演】 25.公演3部(13)<ポエム>

崔承喜東京デビュー公演32番目<ポエム>プログラムでは<ポエム>のように簡略紹介した

 

13. ポエムスクリアビン賛助出演:石井漠

 

プログラムの解説にはポエム振付師についての言及はないがおそらく石井漠1886-1962作品だろう崔承喜リリック·ポエム1935)』という作品発表したがこれは19351022日比谷公会堂かれた2回新作舞踊発表会であった

 

 

そのにも石井漠崔承喜作品にはタイトルがているものがなくない石井漠<カリカチュア><ポエム><マスク>崔承喜<たちのカリカチュア><リリックポエム><假面舞·ボンサンタル>などとタイトルがている崔承喜作品活動する師匠石井漠影響々な水準側面観察されるが作品題名でも影響力むことができる

 

タイトルがているからといって作品そのものがているわけではない音楽衣装けが作品だがタイトルだけをればペアを作品がかなりいだけだ師匠作品タイトルが弟子創作発想影響えたことがらかで崔承喜もそのような影響さなかった

 

石井漠ポエム崔承喜のデビュー公演前発表された記録発見されなかった。 『のパンフレット119277419307収録された石井漠作品リストにもポエムという作品はなかった。 『のパンフレット81935まで出版されているのでさらに調査必要だが、『あきらめ同様ポエム石井漠初期作品であるはずなので1-4作品リストに収録されていなければそれ以降創作された作品である可能性

 

 

ポエム石井漠初期作品というのはタイトルのためだ。 「ポエムとはという意味これは石井漠山田耕作(1886-1965)舞踊詩運動めた1916年前後作品だったと判断される

 

舞踊詩という用語使ったのは石井漠ではなく山田耕作だったがドイツ留学えて1914日本東京フィルハーモニーオーケストラを組織した石井漠帝国歌劇部のジョバンニ·ロシ団長葛藤じさせ歌劇部から解雇されたところだった

 

 

石井漠1914帝国歌劇部同窓生村上菊尾1893~1982紹介山田耕作出会練習室舞踊詩運動めたこの山田耕作舞踊という言葉わりに舞踊詩という用語使おうと提案したこれについて石井幕府1940:20-24)』のようにべている

 

山田夫人がその當時帝劇同期生だつた關係から山田先生紹介イサドラグンカンサカロフニジンスキーダルクローズなどのすばらしい土産話度膽かれてしまつた早速山田先生稽古場引取られることになり先生協力して日本しい舞踊運動すことに相談まつたのである···

 

... 私達ダルクローズのメソードから丹念研究しはじめた··· 舞踊といふ言葉はないといふので、『舞踊詩といふことに私共理想があまりに漠然としてゐたのでめなければならないやうな時代であった。」

 

石井漠山田耕作から西洋舞踊家たちの活動自分舞踊概念らとじだという事実確認したこれに石井漠山田耕作けをけながら空腹我慢しながら練習専念したという

 

 

ところが山田耕作舞踊詩という言葉創案したのはロシアの音楽家アレクサンドル·スクリアビンAlexander Nikolayevich Scriabin1872-1915のおかげだったスクリアビンは自分作品にピアノの小品(Pòme)という名前けたりしたこれは自身作品文学えば散文相対するじだとえたためだった

 

山田耕作はスクリアビンのピアノ作品にも印象けたが自身作品認識する方式により感銘けたようだ1914にドイツ留学えて帰国する地中海印度洋旅客船らずわざわざロシアを横切大陸横断列車ったのもスクリアビンの演奏会をもっと観覧するためだったという

 

 

スクリアビンは1903から1914まで作曲した15以上のピアノ小品という副題をつけたところが崔承喜東京デビュー公演発表された石井漠ポエムには副題がついていなかったこれは背景音楽だったスクリアビンの原曲副題がなかったという意味だろうスクリアビンのピアノ全部15作品20だった(5つの作品にはそれぞれ2つのまれているからだ)

 

副題のついた作品<悲劇(Pòme tragique, Op.34, 1903)><サタンの(Pòme satanique, Op.36, 1903)><幻想(Pòme fantasque, Op.45#2, 1904)><のある(Pòme aileé, Op.51#3, 1906)><だるい(Poème languide, Op.52#3, 1907)>, -マスク(Pòme-Masque, Op63#1, 1912)」、「-疏遠(Pòme-Etrangeté, Op.63#2, 1912)」、「-幻想(Pòme-Fantastique, Op.71#1, 1914)」、「-(Pòme-En rêvant, Op.71#2, 1914)」、「-花火かって(Poème-Vers la flamme), Op.72, 1914)など10

 

 

10とだけばれ副題はないしたがって石井漠舞踊<ポエム>はおそらく副題のない10のうちの1伴奏音楽としたものと推定できるしかしそれがどんなだったのかは調べる方法がないわけだ

 

石井漠山田耕作のピアノもよくBGMとして使った<いパンとニンフ(1924)>がそのつだった山田耕作はベルリン滞在中191212ロシアの舞踊家ニジンスキーの舞踊公演観覧したがにドビュッシーClaude Debussy1862-1918牧神午後への前奏曲Prélude ̀ l'apr̀s-mididid'un faune1894)』舞踊化した作品何度して観覧したという

 

 

帰国後19157山田耕作はニジンスキーの舞踊作品からけた印象をもとに5つのピアノ作曲タイトルをきケンタウル-5つのポエムけた作曲当時表紙舞踊曲バレエ表記したが19151111のピアノ演奏会プログラムには舞踊詩という名称作品紹介した

 

石井漠山田耕作のこの作品利用して舞踊詩タイトルをきパンとニンフけたこの作品19169東京丸保険協会講堂かれた新劇場第3回公演初演された<ユーモレスク><>一緒だった

 

山田耕作曲<いケンタウロス-5つのポエム>演奏時間1番曲1262番曲393番曲474番曲495番曲51全曲432石井漠5使っていたらやや作品になっただろうしあるいはそのうち数曲だけを選択して編曲した音楽使った可能性もある

 

 

しかし山田耕作石井漠協業創作した舞踊作品する観客とマスコミの反応ややかだった山田耕作はすぐニューヨークにしばらく活動舞台石井漠191610宝塚少女歌劇団舞踊講師として赴任して生活費がなければならなかった

 

 

するに崔承喜東京デビュー公演上演された石井漠ポエム1910年代後半舞踊詩運動草創期創作された作品つであろう観客評論家められなかった先駆者だった時代作品弟子のデビュー公演再演した石井漠意図だったのだろうかおそらく周囲評価にこだわらず自分意思くことだったのだろう(jc, 2024/8/27)