『宝塚朝鮮人追悼碑』の主人公に対する調査の出発点は、当然追悼碑である。 リサーチの目標は、その主人公たちの韓半島内の縁故地や親戚を探すことであるため、まず彼らの名前を確認することが必須だ。
鄭世和先生が送ってくださった新しい追悼碑の写真には神戸水道工事と福知山線鉄道工事で死亡した5人の朝鮮人労働者の名前がはっきり写っていた。 追悼碑の前面下段に刻まれた彼らの名前は、鉄道工事で死亡した尹吉文(21)、呉伊根(25)氏、水道公社で死亡した金炳順(30)、南益三(37)、張長守(27)氏である。
五人の名の上には「越鳥南枝」という漢字が大きな字の縦書きで刻まれている。 「越の鳥、南の枝に行く」という意味だ。 これは中国の南朝·梁代(502~557年)に編纂された古代詩歌集『文選』29巻に収録された五言詩19首のうち、最初の作品である。
他の詩のようにここにも題名が特に付いていないので、最初の行<行行重行行>が題名として呼ばれる。 五言の十六行からなるこの詩の7~8行目が「胡馬は北風に依り/越鳥は南枝に巣くう」が、後ろの部分で「巣」の字を取って「越鳥南枝」という四字成語で作ったものだ。。
西暦六世紀の本に掲載された詩だが、その単純な形式や素朴な内容から見て、春秋戦国時代にまで遡ることのできる、中国の本当に古い歌である。 少なくとも2500年間伝えられてきた歌詞なのだ。
この歌は'別れの歌'だ。 「行き行きて重ねて行き行く/ 君と生きながら別離す// 相去ること万余里/ 各天の一涯に在り// 道路阻たりて且つ長し/ 面を会わすこと安んぞ知る可けん」。そして、次に「胡馬」と「越鳥」が登場するのだ。
この歌は二つの節に分けることができるが、8行までの第1節は故郷を離れた子供の歌と見える。 北方の馬が北風に身を寄せて、越の鳥が南の枝に巣を作るように、去ってきた故郷を懐かしむということだ。
第2節は、子どもを見送った親の歌だ。 「相去ること日に已に遠く/ 衣帯日に已に緩し// 浮雲白日を蔽ひ/ 游子顧返せず// 君を思へば人をして老いせしむ/ 歳月忽ち已に晩れぬ」。これは遠く離れて帰れない子を待つ心情だ。 別れが長く、子どもが乗れば、ベルトが緩むほどやせたことだろう。
第2節の最後の2行は、今日もよく耳にする親の心配だ。 「棄捐して復た道ふこと勿からん/ 努力して餐飯を加へよ」という諦めの親の子どもの心配は2500年前も今も変わらず、南京でも宝塚でもソウルでも同じなのだ。
『越鳥南枝』の碑文を初めて見た時、私は疑問を抱いた。 日本で死亡した朝鮮人をなぜ中国詩にしたのか。 しかし、中国の梁武帝の長男である昭明太子(501-531)が編纂した『文選』は、韓国では高句麗と新羅でも好んで暗誦されたという内容が『旧唐書』と『三国史記』に載っている。 日本でも奈良時代の『日本書紀(680-720)』と『万葉集(7-8世紀)』に「文選」の影響が見られるという。 中国で始まった歌ではあるが、韓国と日本の歴史でも非常に馴染み深い詩だったということだ。
この追悼碑に美しい行書体で「越鳥南枝」を書いた人物が気になった。 『文選』の「古詩」を知っている漢文学者か、力強くて優雅な字体から見て専門書道家であろうと思っていた。
しかしこの字を書いた金禮坤(キム·イェゴン)先生が日本語-朝鮮語辞典まで編纂した語文学者であり、砕石会社を成功的に経営した事業家という事実を知って私は驚いた。 (*)
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