アイザック·ニュートン(Isaac Newton、1642-1726)の引用句の中に「巨人の肩の上に上がった小人」という比喩がある。 個々人の研究者の能力は制限されるが、先輩研究者の業績を学ぶことで巨人の肩の上にのぼり、そこでより広い視野とより正確な方向を見出すことができるということだ。
私が『宝塚朝鮮人追悼碑』の主人公を探しながら感じたのはニュートンの小人だった。 「未知の世界」に調査の第一歩を踏み出しながらも、私は同分野の事前知識も全くなく、関連研究方法論を熟知したわけでもなかったからだ。 幸いにもニュートンは私に巨人の肩に上がるよう勧めていた。 先輩研究者たちの業績を見習えということだ。
一方、パトリック·マイヤーズ(Patrick Meyers)の戯曲『K2(1982)』は遭難した登山家たちにこう勧める。 「まず現在の状況を把握しろ。 遭難した地形を把握し、身體に負傷していないか調べ、装備の残りを点検する。 そうしてこそ、次のことを決めることができる」。 私の記憶に依存した引用なので正確ではないが、おそらくそのような内容だっただろう。
遭難した登山家があわてたあげく計画なしに彷徨うようになれば、救助されるどころか死亡に至る。 そのため、まず地形と負傷と装備を点検せよということだ。 そうしてこそ最大限現実的に実現可能な最も良い行動指針を用意できるというのだ。
マイヤーズとニュートンのアドバイスにより、私は『宝塚朝鮮人追悼碑』に直接あるいは間接的にでも関連するすべての資料を集め始めた。 まず、追悼碑そのものだった。 私はまだその追悼碑を見たことがなかった. 写真で見ただけだが、その写真は解像度が低く、碑石の小さな字を読むことができなかった。 それで鄭世和先生にすべての字がはっきり見える写真を送ってくださいと頼んだ。
鄭鴻永先生の著書『歌劇の街のもう一つの歴史:宝塚と朝鮮人』(1997)も要請した。 この本は追悼碑の主人公に関する最初であり、最も深みのある研究書であるため、教科書であり必読書であった。 鄭鴻永先生は私がその肩に上がらなければならない巨人だったからだ。
また、他の巨人には近藤富男、真銅敏之、鄭世和先生がいる。 彼らは、私が鄭鴻永先生の肩の上に上がれるよう、肩車に乗せてくれる仲間たちだ。 実際にこの3人は追悼碑の主人公たちの縁故を求めて以来助言と助けを惜しまず、これからもどんな気になることがあっても躊躇なく質問できる方々でもある。
とくに近藤先生は歴代の『むくげ通信』に掲載された鄭鴻永先生に関する寄稿文を教え、私はそれらを順次読んでいくことにした。 そのうち5件は、むくげの会のウェブサイトでダウンロードできた。 信長正義先生の「サラムサラム(2)鄭鴻永氏(115号)」、堀内稔先生の「新聞記事に見る武庫川改修工事と朝鮮人(153号)」、飛田雄一先生の「鄭鴻永さんの死を悼む(178号)」と「兵庫の在日朝鮮人史研究を再スタートさせましょう(256号)」、そして近藤富男先生の「鄭鴻永さんとのこと(300号)」がそれであった。
近藤先生はまた、<むくげの会>と<兵庫朝鮮関係研究会>と<兵庫縣在日外国人教育研究協議会>が共同編纂した<兵庫のなかの朝鮮(2001)>と宝塚市が發行した<우리고장(ウリコジャン=うちのまち) たからづか>1巻(1999年)と2巻(2001年)も勧めている。
その他にも、近藤先生は鄭鴻永先生との共同研究の起爆剤の一つだった西谷村事務所発行の埋葬認許證3枚を写真で送ってくださり、鄭世和先生はこの地域の朝鮮人の歴史で博士学位論文を書いた蔚山大学の鄭桂香(チョン·ゲヒャン)先生の研究も参考にして下さった。
私は初めて安心した. これほどの資料であれば、『宝塚朝鮮人追悼碑』に関する「状況把握」と「巨人の肩に登る」に十分な梯子がなるという確かな印象を受けたからである。 (*)
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