結局、私は『宝塚朝鮮人追悼碑』の主人公たちを探しに出かけることにした。 尊敬する近藤富男先生と兄さんのように親しい鄭世和先生の勧めがきっかけだった。 しかし、その気にならなかった。 100年の歴史の中に埋もれた人々の痕跡をどう探せばいいか見当がつかなかった。
ふと、なぜ私にそんなお願いをされたのだろう、という疑問を持った。 私が崔承喜先生の公演記録を探し出すのを見て、新しい可能性を見たのだろうか。 2018年の夏から私は40以上の日本都市を訪問し、崔承喜先生の公演記録を発掘した。 概ね単身であったり、広報記事に過ぎないものも多かったが、新しい事実を示す重要な記録もかなり見つかっている。
私はそのような資料を苦労して発掘しておいても、まともに読めない場合が多かった。 むちゃくちゃな日本語のためでもあったし、80年前の日本語が今とはずいぶん違っていたからでもあった。 しかし、一番大変だったのは不明な活字だった。 時間と費用をかけてコピーしてきた資料の中には、読めないほど文字がぼやけているものが多かった。
そんな資料があらわれるたびに、私は失礼にもかかわらず、真銅敏之先生に読んでいただきたいと思った。 真銅先生は、鄭世和先生の親友であり同僚でもあるが、2020年3月に私が神戸を訪れた際、木川西のラーメン専門店来来亭で昼食をとりながら挨拶を交わしたことがあった。 彼は陽気な性格で面白い冗談もよく言うが、驚くことにインターネット検索も上手だ。 私が知りたいことを何でも質問すると、あっという間に答えを見つけてリンクと一緒に送ってくれる。
真銅先生は日本語の古文を読むこともできた。 (1920~30年代の日本語が古文に分類されるかどうかは分からないが、単語が今日と違うものも多く、甚だしくは今日見られないスペルが使われることもある。)真銅先生は、曇ったり潰れたりした字も、前後の脈絡と単語の関連性を参考にしてすぐ判読して下さった。
真銅先生に頼む事が多くなり、申し訳ない気持ちから近藤富男先生にも頼み始め、結局、お二人と鄭世和先生と私の参加する団体LINEルームができたのをきっかけに、お二人で交互に私の質問に答えて下さった。
言語も下手で、日本の歴史と地理概念も足りない私が、80年前の崔承喜先生の日本公演の資料を探して解読する姿を突拍子もない姿に見えたかも知れない。 私には、そのようなハンディキャップを補うためのいくつかの方法があったが、ただそばで見ていた人なら、まるで私が資料調査の才能があるかのような誤った印象を与えたのかもしれない。
ともかく、このような過程で、私は自然に近藤先生と鄭世和先生を通じて<宝塚朝鮮人追悼碑>の犠牲者の身元と縁故を探してほしいと頼まれた。 2020年9月末頃だったと記憶されている。
率直に言えば、私は困った。 <強制動員>は重要な研究テーマだが、私には慣れない分野だった。 しかも追悼碑の主人公は、強制動員が始まる前に労働移民として日本に渡った方々であり、当時は官庁の記録や会社の記録も非常に不十分な時期であった。
工事中に発生した事故がその地方新聞に報道されても、一過性の記事にとどまることはよくあることであったため、関係者の人的事項を把握することは困難である。 マスコミの注目を集めた人気芸術家の崔承喜先生とは違って、媒体や記録保管所で文献資料を探すことが難しい方々だったのだ。
けれども私は近藤先生、真銅先生、鄭世和先生の要請を断る事ができなかった。 彼らは数十年間、犠牲者を調査し、記録して、祭祀を行ってきた方々だった。 そんなありがたい方々の願いは私にとって重要だ。 「難しそうだ」という理由で努力まで諦めるわけにはいかなかった。
それで私は鄭世和先生に答えなければならなかった。 「僕が一度探してみます」。(*)
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