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조선인 추도비

10. 鄭鴻永、金禮坤、そして近藤富男先生

近藤富男先生むくげ通信(300)寄稿した鄭鴻永さんとのこと1983年秋から鄭弘永先生金魚になったとべている2宝塚兵庫さらには日本全土在日朝鮮人関係調査研究活動相棒になったのだ

 

鄭鴻永先生生前福知山線新設工事死亡した日本人労働者追悼碑てられているが同鉄道改修工事死亡した朝鮮人労働者たちの追悼碑がないことをよくいた近藤先生宝塚朝鮮人追悼碑建立情熱いだのはそのような鄭弘永実現するためであろう

 

 

鄭鴻永先生の著書『歌劇の街のもうひつの歴史:宝塚と朝鮮人(1997)』には近藤富男先生と共にした研究業績がぎっしりまとめられている。

 

一方近藤先生坤先生とも緊密関係をもって活動した2013、「宝塚市外国人市民文化交流協会加入キム·イェゴン先生2017からは宝塚朝鮮人追悼碑建立のために結成された木蓮会共同代表めたそれから3年後2くの団体個人協力結局追悼碑てた

 

つまり近藤先生鄭弘永金礼坤先生とそれぞれ協力在日朝鮮人関連調査研究市民団体活動ってきたのであるそれでは鄭鴻永先生金禮坤先生とはどのような関係だったのだろうかこの文章では2人的事項交友関係全体的べることはできないしかし、『宝塚朝鮮人追悼碑建設問題ると鄭鴻永生前死後二人緊密関係であったといえる

 

2には共通点かったまず同年代鄭鴻永先生1929年生まれで金禮坤先生1933年生まれだまた2はいずれも総連所属して活動した鄭鴻永先生朝鮮総連宝塚支部委員長金禮坤先生朝鮮中学高校大学卒業して朝鮮大学同窓会って初代会長歴任した

 

 

在日2世の金礼坤(キム·イェゴン)先生は青年時代には学術活動で、中年以後は企業経営と市民団体活動で在日朝鮮人の位相を高めるために努力した。 最近では、鄭鴻永先生の遺志に従って<宝塚朝鮮人追悼碑>を建立するために碑石を用意し、字を書き、敷地を確保することにも尽力した。

 

そして2はいずれも学術社会運動熱心だった鄭鴻永先生在日朝鮮人歴史をせんさくし金禮坤先生宝塚地域外国人市民運動展開したこのような学術および社会運動はいずれも在日朝鮮人過去現在生活改善しようという目標っていた

 

しかし2にはいもあった鄭鴻永先生慶尚北道(キョンサンナムド) 尚州(サンジュまれ7日本ってきた在日1だが金禮坤先生兵庫県川辺郡小浜村, 宝塚市小浜まれた在日2である

 

鄭鴻永先生宝塚日本人学校教育16解放えた関西名門·関関同立つである立命館大学農学専攻した金禮坤先生13解放えるまで日本小学校ったが·高級及大学教育はちょうど設立された朝鮮学校民族教育けた専攻語文学だった

 

 

近藤富男先生は鄭鴻永先生との研究調査と金禮坤先生との市民団体活動により『宝塚朝鮮人追悼碑』を建てた主役であり生き証人でもある。

 

2活動領域時期っていた鄭鴻永先生総連宝塚地域委員長として政治·行政活動をし委員長辞任した歴史分野学術運動じた金禮坤先生東京中心学術運動をし70宝塚った企業経営専念したが90年代半以降市民社会運動展開した

 

このようないくつかのいにもかかわらず2宝塚朝鮮人追悼碑てることに協力したわけである鄭鴻永先生調査研究じて殉職者存在らかにしらの宝塚市民社会在日朝鮮人共同体じる意味らかにした金禮坤先生鄭鴻永先生意思けて石材用意追悼碑適切場所てられるよう敷地用意することにも積極的した

 

つまり、「宝塚朝鮮人追悼碑てられたのは鄭鴻永先生先駆的努力だけでなく金禮坤先生実質的活動そしてこの二人結局事げるのにいた近藤富男先生長年努力があったからである(*)