鄭世和先生から話だけを聞いた近藤富男先生と初めて挨拶を交わしたのは2020年9月だった。 ライン(LINE)を通じて初の挨拶をした。 その後も今まで近藤先生に直接お目にかかったことがない。 コロナ19防疫が厳しくなった上、突然発生した韓日交易摩擦の影響で、韓国人の日本旅行が自由ではなくなったからだ。 非常に残念なことだ。
近藤先生が在日朝鮮人の歴史を研究して来られたことも尊敬に値するが、私には彼が信義を備えた人物として特別に刻印された。 彼が師匠のように慕っていた鄭鴻永先生の遺志を忘れず、意外な連絡をくださった万福寺住職の要請も受け入れ、長い準備の末、5人の殉職者のために<宝塚朝鮮人追悼碑>を建てたことが私に深い印象を与えたのである。
近藤先生にもう一つ感謝したのは、私たちが在日朝鮮学校に<舞踊靴送りキャンペーン>をした時、一番先に賛成して参加してくださった日本人だったからだ。 鄭世和先生の親切な説明があったためでもあるだろうが、近藤先生はおそらくこの仕事があなたが長く活動してきた<宝塚外国人市民文化交流協会>の趣旨と合致されると理解してくださったようだ。
韓国で<第2次舞踊靴送りキャンペーン>を終えて集められた後援金で舞踊靴が用意された時、近藤先生は2020年11月6日直接大阪へ行って朝鮮学校舞踊部の学生たちに自ら舞踊靴を渡してくださった。 その場で彼は学生たちに激励の言葉もくださったが、その激励の言葉の原稿を私にも送ってくださった。 冒頭のウィットのある言葉も面白かったし、その日に観覧した舞踊作品に対する感想も良かったが、私にとって感銘深かったのは次のような話だった。
「私は日本人として、この方々(=韓国の後援者たち)に心を動かし、韓国とアメリカの人々にも訴えて、力を合わせて在日朝鮮学校の学生たちに対する支援を始めることにしました」
「心が動いた」という表現が胸にささった。 在日同胞学生を後援することは韓国同胞として当然すべきことだが、そこに「心が動いた」という。 実は私もそうだった。 日本人教育者として在日朝鮮人の歴史を研究し、彼らが経験してきた偏見と差別を正すために努力してきた近藤富雄先生の人柄と活動に私も「心が動く」だったのである。
同年11月中旬に日本で在日朝鮮学校の生徒たちを支援するための市民団体を結成したのも、鄭世和先生と共に近藤富男先生が先頭に立ってくださったおかげだ。 韓国で李仁珩先生と私が<舞踊靴>の後援会員を募集している間、日本では<チームアイ>が結成されたのである。 <舞踊靴>と<チームアイ>は連絡を取り続け、必要な事業に積極的に協力することにした。
「チームアイ」は「子供(아이)」を「愛」と「見守る(eye)チーム」という意味で、近藤先生が直接名付けた。 <チームアイ>の会員たちは、若者たちがそれぞれ住む場所で偏見と差別なく、自分の文化に対する自負心を持ち、堂々と生きていける教育環境を作ることを推進することにした。 在日朝鮮学校の後援も、そのような大義にかなうことだと判断されたのである。
近藤先生にはもう一つ願いがあった。 それは『宝塚朝鮮人追悼碑』に記録された朝鮮人犠牲者5人の縁故を探すことだった。 鄭世和先生は、近藤先生が彼らの縁故を求めて韓国を2度訪問したこともあるという話も伝えてくださった。
近藤富男先生の『むくげ通信』(300号)への寄稿文を読むと、彼が朝鮮人殉職者の縁故を探そうとした理由が分かる。 それは鄭鴻永先生の意思でもあったし、また玉瀬の万福寺住職と婦女会員の願いでもあったのである。
鄭鴻永先生がまだ生きていて研究を続けていたなら、その殉職者たちの縁故を捜し求めたに違いない。100年以上無縁故者として祭祀を行ってきた僧侶たちと婦女会員たちの願いも同じだろう。
近藤富男先生は彼らの願いを実現したかったのだ。 (*)
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