崔承喜が1933年3月に再び東京に渡り舞踊活動を再開した当時、社交ダンスとレビュー、そして映画の爆発的な盛行で日本の芸術舞踊界は存立根拠を喪失していた。
1910年代に新舞踊を始めた1世代舞踊家たちはすでに構築した基盤で危機状況にもかかわらず舞踊活動を継続することができたが、1世代の大家たちから新舞踊を学んだ新進舞踊家たちは生活と舞踊活動のための根拠を用意することが難しい状況だった。

崔承喜は1934年9月に第1回東京発表会に続き、1935年4月に石井舞踊団から独立した後、このような危機状況で芸術舞踊を続けるための方案を講じなければならなかった。 崔承喜が採択した方法は、概して師匠から学んだ方法だった。
第一に、東京で定期的な芸術舞踊公演を続けながら、これを土台に持続的に地方公演を遂行することだった。 崔承喜は1935年10月22日に第2回東京公演、1936年9月22-24日の第3回東京公演、1937年9月27-29日の第4回であり、渡歐告別公演などの年例東京公演を続け、東京公演以降は日本全域と朝鮮、満州、台湾などで地方公演を行った。
第二に、映画に出演して芸術舞踊の存在感を知らせ、舞踊家自身を広報していく方法だった。 崔承喜は1936年の『半島の舞姬』と1938年の『大金剛山の譜』に出演し、自分の半生を紹介し、創作舞踊を広報していった。 これらの映画の作品性はそれほど高くなかったが、崔承喜の人気が上昇するにつれ長期上演されることができ、これは崔承喜が大衆の娯楽物を大量生産し始めた映画界と交流できる契機を用意してくれた。

第三に、崔承喜は1920年代後半から盛んになり、1930年代には極盛期に達した社交ダンスとは距離を置いたが、これも師匠の石井漠の方針に従ったものだった。 社交ダンスはもともと公演芸術ではなかったためでもあるが、それよりは日本での社交ダンスは西洋とは違い、「エログロナンセンス」という大衆文化の特性を濃く持っていたためと見られる。
第四に、崔承喜はレビュと積極的に交流したという点で、師匠とは差別的な戦略を採択したものと見られる。 石井漠も1916年11月から1917年2月まで宝塚少女が劇団の舞踊教師を歴任したことがあり、ヨーロッパと米州巡回公演に出る前まで(1917-1922年)浅草オペラの一員として活動したこともあるが、巡回公演から帰ってきた1924年からはレビュと全く交流せず、芸術舞踊公演だけに専念していた。
しかし、崔承喜はレビュ公演団の宝塚少女歌劇団との交流と協力を推進し、これを通じて収入と広報の両面で大きな成功を収めたが、このリサーチノートで明らかにしたように、その始発点が1935年11月9日の宝塚大劇場公演と11月10日の野外舞踊撮影大会だった。
崔承喜は宝塚大劇場公演と野外舞踊撮影大会を通じて短時間に巨額の公演収益を上げただけでなく、日本全域から宝塚に集まった観光客に自身の舞踊を広報することができた。 崔承喜の公演と撮影大会は、娯楽舞踊の宝塚少女歌劇団にも芸術舞踊との交流を広報する機会になり、新進舞踊家だった崔承喜には舞踊活動を持続できる収入と広報の機会を提供したと判断される。
これと共に崔承喜は少女歌劇団のスターたちと共にメディアに登場することも憚らなかった。 1935年7月号『主婦之友』には南里枝と共に水着広報に登場したほか、1935年12月号『モダン日本』には崔承喜が松竹のスターの水の江瀧子と共にインタビュー記事に登場したこともあった。
しかし、崔承喜のレビュー交流は外形上の交流だった点は指摘しておくべきだろう。 このような交流を通じて断行された崔承喜の公演の演目は徹底的に芸術舞踊作品だったためだ。
結局、崔承喜は宝塚大劇場公演と野外舞踊撮影会の後も、自分の芸術舞踊のアイデンティティを維持しながらレビューとの交流を続け、このような交流は崔承喜が1938年にヨーロッパと米州公演に出る前まで続いた。 (jc, 2025/3/20)
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