崔承喜の東京デビュー公演2部の5番目で最後の作品は<僧の舞>だった。 プログラムは<僧の舞>を次のように紹介した。
11. 僧の舞、朝鮮古典、崔承喜。
これは高麗末期, 松都(=開城)の名技「黃眞伊(ファンジニ)」が當時の高僧だつた「萬石僧」を誘惑せんとして踊つたことに淵源をもつ踊りでありますが、私はこれをそのテーマに依つて新らたに創作したものであります。(崔承喜)
「僧の舞」はジャンルと流派を問わず韓国伝統舞踊に欠かせない演目だが、その起源については様々な説明がある。
(1) 黃眞伊が知足禅師を誘惑するために踊ったという黃眞伊初演說、(2)上座僧が師匠の梵節と読経と説法する姿を戯弄調に真似したという童子技舞說、(3)性眞が八仙女の美色に惑わされ、仏道を悟り解脱する過程を描写したという九雲夢引用說、(4)破戒に還俗し、呵責として煩悶する姿を描写したという「破戒僧煩惱說, (5) 山大仮面劇の中で、老荘踊りが起源だという老長舞由來說などだ。
東京デビュー公演プログラムの解説によると、崔承喜は黄眞伊初演説に従っているわけだ。 崔承喜はヨーロッパデビュー公演だったパリ·サルプレイエル(Salle Pleyel)劇場公演で「僧の舞」を1部の初作品として発表したが、フランス語タイトルを「仏教徒を誘惑する女性(Séductrice Bouddhiste)」と付けた。 誘惑女は黃眞伊、誘惑に負けた仏教徒が知足禅師だったのだ。
東京デビュー公演プログラムで誘惑女を黃眞伊(1506-1567)と特定したことは理解できるが、相手役を萬石僧としたことが疑問だ。 絶色の黃眞伊が学者(徐敬德)と禅僧(知足禅師)を女色で誘惑しようとする計画を立てたが、花談の徐敬德(1489-1546)は失敗し、知足禅師は成功して破戒させたという野談から由来したものだ。
ただ、知足禅師の名前が違う。 車相瓚(チャ·サンチャン、1887-1946)が著述した「韓国野談史画全集(1959)」5巻の黃眞伊編によれば「知足禅師」という名前は固有名詞ではなく「知足庵で参禅する僧」という意味に過ぎず、彼の名前は妄釋だった。
妄釋は開城の天馬山清涼峰の下の知足庵で10年修道に精進して生仏と呼ばれた人だ。 彼の名前の妄釋は「虚しい仏」という意味なので、この名前も本名というよりは黃眞伊の誘惑事件で破戒した後に付けられたニックネームである可能性が高い。
一方、柳得恭(1748-1807)が編纂した「京都雜誌(1800年頃)」第1巻の聲伎編には「曼碩僧遊び」がある。 これは四月初八日に上演する人形劇で、主人公の曼碩は高麗の僧で、彼の相手役といえる唐女は礼成江(イェソンガン)沿いに住んでいた中国人の娼女、小梅は昔の美女の名前だという。 そして曼碩は「とても賢い」という意味だ。 おそらく、この曼碩が妄釋である知足禅師と混同され、同一人物として語り継いだりしたものと推定される。
問題は崔承喜がなぜ妄釋または曼碩という名前を萬石で叙述したかだ。 万石とは「非常に多くの穀物」を指すか「年間1万石の小出を出す金持ち地主」という意味なので、妄釋や万石の意味とは正反対の意味を持つ。 おそらく崔承喜が各名前の発音が似ているという理由で混同して発生したミスと推定される。
「僧の舞」は高麗時代から朝鮮時代にかけて民間に広まった踊りだが、これを採集·整理して近代的な舞台で公演し始めたのは韓成俊(ハン·ソンジュン、1874-1941)だ。 彼は1936年、第1回舞踊発表会を開いた時、「僧の舞」を発表作品の一つに含めた。
韓成俊の「僧の舞(1936)」が舞台で発表される前の1934年、崔承喜は師匠石井漠の勧告で韓成俊から朝鮮舞踊の色々な作品を伝授されたことがあるが、この時韓成俊が整理した「僧の舞」も崔承喜に伝授されたと推測される。 崔承喜はその年の9月21日に東京青年館で開催した自身の第1回発表会で「僧の舞」を発表したことで、崔承喜の「僧の舞(1934)」が韓成俊の「僧の舞(1936)」より発表時期は早いが、事実上その源流は韓成俊氏だったことが分かる。
韓成俊の死亡後は彼の孫娘である韓英淑(ハン·ヨンスク、1920-1989)が<僧の舞>を継承した。 韓英淑は1937年10月、京城府民館で開かれた「韓成俊舞踊発表会」に参加し、僧舞と鶴踊り、サルプリ踊りに出演して喝采を受けたことがある。
韓成俊が死亡した後、韓英淑は1942年に<韓成俊舞踊研究所>を<韓英淑舞踊研究所>に改称して韓成俊流の踊りを続け、1955年には朴貴姬(パク·グィヒ)、朴初月(パク·チョウォン)と共に韓国民俗芸術学院を開設したが、これは1960年代に国楽人養成のための<韓国国楽芸術学校>に改編され民俗音楽と民俗踊りを教えた。
韓英淑は僧舞技芸能保有者(1969)と鶴舞技芸能保有者(1971)として国楽芸術學校、ソラボル芸術学校、梨花女子大学校、修道女子師範大学などの講師を経て、1981年からは世宗大学校舞踊科教授として在任した。
ただし、韓英淑に伝承された韓成俊の「僧舞」と崔承喜の「僧舞」は全く違う作品だ。 まず長さから違う。 韓英淑流の「僧舞」作品の長さが約26分に達する反面、崔承喜の「僧舞」は5分以内であるためだ。
韓成俊から伝授された韓英淑の「僧舞」は、伝統的な「僧舞」にもっと近いだろう。 しかし、崔承喜の『僧舞』はストーリーラインと基本的な踊りを受け入れるものの、完全に再創作された作品だ。 近代舞踊としての新舞踊、特に石井漠から学んだ新舞踊創作法によれば、すべての作品は3-5分以内と短くなければならず、その中に起承転結の流れを与えなければならなかった。 これは舞踊詩の舞台上演のための基本条件だった。
舞踊詩が3-5分程度で短くなければならなかったのは、石井漠が舞踊作品を「敍事」を伝える「散文」ではなく「抒情」を伝える「詩」と理解したためだ。 散文とは異なり詩は六何原則が明確なストーリーテリングではなく、感じと雰囲気を伝達することが目的だ。
詩が言語で情調を伝えるならば、舞踊詩は身体動作で情調を伝えることだ。 叙事文学は中長編の場合がほとんどだが、詩文学は概して短い。 このように舞踊詩は、叙事伝達のための既存の舞踊劇のように長くてはならず、感じと雰囲気を伝達することに焦点を合わせるために短くしなければならないということだ。
しかし、短い舞踊詩が芸術性を持つためには、舞踊動作で伝えられる情調が起承転結の流れを成さなければならないということだ。 のっぺらぼうな動作が数十分も続くのは、見栄えはするものの、美学的価値を担保するのは難しいというのが、舞踊詩運動家たちの持論だった。
したがって、崔承喜は韓成俊から「僧舞」を学んだが、これを完全に解体し、最も基本的な要素だけを選び出し、再組み立てすることで自分の「僧舞」を創作したのだ。 その「最も基本的な要素」は、崔承喜が北朝鮮時代に刊行した『朝鮮民族舞踊基本(1958)』にまとめられている。
崔承喜の東京デビュー公演の<僧舞>解説は黃眞伊初演説を説明するのに止まったが、パリデビュー公演のプログラムには一つの解説が追加されている。
サルプレイエル公演プログラムは「(舞踊家が)僧侶を装って寺に入って太鼓の音に合わせて踊りながら仏教徒を堕落させる」と解説しながらも、この踊りの社会的性格を次のように明示した。
「この踊りは高麗人たちが、勢力が過度に強くなった仏教に対抗して、闘争し始めた時代を思い出す。(Cette danse rappelle l'époque où les Coréens déclenchaient les luttes contre les bouddhistes devenus trop puissants.)
「仏教の勢力があまりにも強くなった時代」とは高麗時代を指すが、社会を乱し腐敗させる堕落した宗教を批判するという点で「僧舞」は社会批判の性格を持った作品でもある。 (jc, 2024/8/24)
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