崔承喜の東京デビュー公演2部の4番目であり、全体で10番目の作品は<村の豊作>だった。 プログラムには「村の豊作」が次のように紹介された。
10. 村の豊作、朝鮮古曲、篠原正雄編曲、石井静子、柴野久子、金敏子、甲斐富士子、金子かほる。
豊饒に秋を歡喜して踊る朝鮮南部地方の農民達の印象素朴で剽輕な味に溢れたもの。
5人のダンサーが滑稽な動作で素早く實演したと推定される「村の豊作」はあまり注目されなかったようだ。 崔承喜の東京デビュー公演直後、新聞と雑誌に報道された各種評論と批評の中でこの作品に言及したことがほとんどないためだ。
それにもかかわらず、崔承喜はこの作品に愛着を持っていたようだ。 1938年1月21日、米サンフランシスコのカラン(Curran)劇場で行った米国デビュー公演でも、この作品を上演したからだ。 公演当日の在米日本人の新聞の<日米新聞>は、崔承喜の公演レパートリーを紹介し、<祝祭の踊り(Festival Dance)>も含めたからだ。
しかし現地メディアは「祝祭の踊り」すなわち「村の豊作」をほとんど報道せず、批評家たちもこれを評論の素材にしなかった。 以後、崔承喜はロサンゼルスとニューヨークで続いた米国巡回公演では「村の豊作」、あるいは「祝祭の踊り」をこれ以上上演しなかった。
これは欧州巡回公演でも同じだった。 パリとブリュッセルとデンハーク、マルセイユとデュイスブルクとカンヌなどで断行した公演でも<村の豊作>を一度もレパートリーに含ませなかった。
さらに、崔承喜の『写真自叙伝』を報道した1934年5月号の『新女性』も『エヘヤ·ノアラ』、『希望を抱いて』のような指名度の高い作品だけでなく、1926年の『セレナーデ』と1927年の『ユモレスク』のような小品まで写真を掲載しながら紹介したが、『村の豊作』は除外した。
「村の豊作」も東京デビュー公演が初演ではなかったものと見られる。 崔承喜のダンソグラフィ(danceography)を見ると、1931年の作品の中に「村の豊作」を連想させる作品があるためだ。 1931年1月10-12日、団成社で開かれた<第3回舞踊発表会>で上演された<郷土舞踊B:豊年が来れば>(以下<豊年が来れば>)だ。
この公演で崔承喜は<郷土舞踊>を2作品まとめて2部の4番目の演目に含めたが、1番目が<郷土舞踊A:農村少女>(以下<農村少女>)であり、2番目が<豊年が来れば>だった。 1931年2月7日、京城公会堂で開かれた「第2回作品発表舞踊公演会」でも2部3番目に「農村少女」と「豊作が来れば」が含まれていた。
1938年2月2日のLAイベル(Ebell)劇場公演では「豊作が来れば」はレパートリーから除外されたが、「農村少女(Peasant Girl)」は2部の5番目の演目として含まれた。 つまり、崔承喜はアメリカ巡回公演初期に1931年の『郷土舞踊』作品2つを順に試演したのだ。 しかし、その後ニューヨーク公演では「農村少女」と「村の豊作」を上演せず、これはヨーロッパ公演でも同じだった。
崔承喜の創作朝鮮舞踊の中で「農村少女」と「村の豊作」は観客と批評家の関心や注目を集めることができなかったものと見られる。 公演案内記事と批評文で記者と評論家はもちろん観客もこれを無視する方だったか、無視ではなくても、言及はするものの注目はしなかった方だ。
しかし、「村の豊作」に対する崔承喜の愛着は強かった。 京城(1931年)と東京(1934年)とサンフランシスコ(1938)>で上演を続けたからだ。
しかし、崔承喜はこの作品が観客と批評家の関心を引くことができないという点をすぐに認識し、新しい機会が来るまではこの作品の上演を自制することで批評を受け入れる姿も見せた。 (jc, 2024/8/24)
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