崔承喜の東京デビュー公演の5番目は<あきらめ(諦念)>だった。 プログラムにはこの二つの作品が次のように述べられていた。
5. あきらめ…(振付···石井漠)··· グリーグ曲、崔承喜
十年前の作。諦めの氣持を全然象徵的に表現したものであるが、今度崔承喜によつて再生させられる事は嬉しい(漠)
「あきらめ」は石井漠の作品であり、師匠の指導に感謝の表示として崔承喜がデビュー公演で上演することを選択した作品だ。 石井漠は『私の顔(1940)』で「18年間で二百数十曲の作品を作った」と述べている。 200曲を超える師匠の作品の中で、崔承喜はなぜそれほど広く知られていなかった<あきらめ>を選んだのだろうか?
石井漠はこの作品を「諦めの氣持を全然象徵的に表現したもの」と説明したが、新しく出発する崔承喜には「あきらめ」は似合わず、師匠の初期作品を選択したのもそれほど自然に見えなかった。
しかし「10年前の作品」という言葉に糸口がある。 1927年7月に発行された『漠パンフレット第1集』に掲載された石井漠の作品目録には、『あきらめ』が1925年の作品として収録されている。 石井漠が自由が丘に根拠地を移す前であり、1924年4月に世界巡回公演から帰って武蔵野に初めて舞踊研究所を開設した時期だった。
崔承喜は1926年4月に東京留学を始めたので、この作品が創作される過程を目撃できなかった。 しかし、1926年6月22日に邦樂座開かれた「石井漠第3回新作発表公演」や1927年7月3日に東京の朝日講堂で開かれた「石井漠舞踊発表会」などに参加し、「あきらめ」が上演されるのを目撃した可能性はある。
しかし、崔承喜が『あきらめ』を初めて観覧したのは東京ではなく京城だった。 1926年3月23日、京城公会堂で行われた石井舞踊団の公演だった。 1926年3月24日付<京城日報(2面)>はこの日の公演に<あきらめ>が含まれたと報道し、崔承喜は兄崔承一の勧めでこの公演を観覧した。 崔承喜は、自分が初めて観覧した師匠の作品を再演することにしたのだ。
1926年3月5日に大連で始まり、同年3月29日に釜山で終わった石井舞踊団の満州-朝鮮巡業で「あきらめ」はほとんど上演されなかった。 1926年3月5日付の『満州日日新聞』に発表された満州巡回公演のレパートリーには「あきらめ」が含まれておらず、仁川(3月24日)と大邱(3月26日)、釜山(3月28-29日)の公演でも「あきらめ」が上演されたという記録がない。
<あきらめ>上演が記録に残ったのは京城3日目の公演だけだった。 おそらく3日間続いた京城公演で同じ演目を繰り返し公演することを敬遠した石井漠が、3日目公演の演目を大幅に変えたものと見られる。 この公演には、他の公演ではほとんど上演されなかった<たそがれ>、<奇妙>、<ヘブライのメロデー>と<あきらめ>が含まれていた。
ところがこの日の公演の演目の中で女性ダンサーの独舞作品として<あきらめ>以外にも<夢みる>と<ソルベージュの歌>、<たそがれ>と<ヘブライのメロデー>などが含まれた。 その中で崔承喜が<あきらめ>をデビュー公演のための師匠の作品に選択した理由は何だったのだろうか?
1926年3月23日付の『京城日報(朝刊3面)』は「舞踊詩<斷念>」が「舞踊の前途を暗示している」と叙述した。 この記事は<あきらめ>を<断念>と訳したが、<諦念>がより適切な言葉だ。 「断念」は避けられない事情のために持っていた考えをあきらめる否定的な意味だが、諦念は新しい悟りを得て過去の考えを捨てるという肯定的な意味であるためだ。
新舞踊から可能性を見出し、全力を尽くすことを決心した崔承喜には、東京デビュー公演のための師匠の作品であり、<あきらめ>ほど適切なテーマはなかっただろう。 これに対して石井漠も「今回、崔承喜によって<あきらめ>が再演されることが嬉しい」と話した。 (jc, 2024/8/21)
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