崔承喜の到着を報道した4つのマルセイユ日刊紙の中で「ル·ラジカル·ド·マルセイユ(Le Radical de Marseille、3面)」が最も長い記事を報道した。 「極東の最も偉大な舞踊家崔承喜との対談」というタイトルのインタビュー記事だった。 ウェゼン·エスカービー(Eug ESCAVY)が筆者として明示されたこの記事を完訳すれば次の通りだ。
「明日(3月1日)夜、市立オペラ劇場で開かれるリサイタルの序幕で、昨日(2月27日)マシュリア·サロンでは、マルセイユ日本総領事の高和さん夫妻が「極東最高の舞踊家」であり「朝鮮最高の美人」崔承喜さんをマスコミに紹介した。
「この女性から真っ先に目につくのは東洋的な顔より彼女の両手だ。 彼女の手はとても薄くてとても長い。 その両手は特別な生命力を持っているように感じられ、飛んでいこうとしたばかりの2羽の白い鳥を連想させる。
「崔承喜さんは(フランス語ができないと言って)英語で話すが、私たちの言語をかなりよく理解しているようだ。 彼女の表現力に優れた目と特に彼女の白く細い手は、彼女の足りない言葉の代わりになる。 また、会話のテーマが何であれ、彼女の芸術に関する話であれ、彼女が歓待を受けたパリ社交界の話であれ、この若くて美しい朝鮮女性との会話はとても魅力的だ。
「数週間前、初めてパリを訪れた崔承喜は、彼女の故国の伝統舞踊を初めて紹介し、パリを征服した。 20世紀の歴史を持つ彼女の舞踊を今度は私たちが鑑賞する番だ。
召命(Vocation)
「崔承喜は朝鮮の首都ソウルで由緒ある家門に生まれた。 彼女は、日本の有名な舞踊芸術家石井漠の公演を見て、自分の召命を発見した。 その時、彼女は15歳だった。 女性解放がかなり進展した日本でさえ舞踊は卑しい妓生の職業と認識されていた時期だったため、ブルジョア教育を受けた娘が舞踊をすると出ると彼女の家族は驚愕した。
「崔承喜は自分の決心を守りながら家族の反対を突破した。 東京で彼女は石井漠の一番弟子になった。 故国に戻った後、崔承喜は村から村へ津々浦々訪問し、農楽舞踊や祝祭舞踊、宗教舞踊などを研究した。 彼女はほとんど忘れられてしまった朝鮮の舞踊の伝統を蘇らせることができるものなら、すべてに関心を持ち、舞踊芸術作品に対する証言を聞いて試演を見た。 その結果、彼女は新しく独創的でありながらも非常に芸術的なレパートリーを持つことができるようになり、これを日本で発表した時に直ちに大成功を収めた。
朝鮮舞踊の大使(Ambassadrice de la danse coreenne)
「しかし、崔承喜の野望はさらに大きかった。 彼女は故国の舞踊を海外に知らせたかったので、この最高の芸術であり最も優雅な芸術である朝鮮舞踊の広報大使になった。
「彼女は自伝的舞踊映画『半島の舞姬』(1936)と『大金剛山の譜』(1938)でヒロインとして出演した後、アメリカ巡業公演に出てそこで激賞を受けた。 彼女はすぐにヨーロッパ巡回公演を決め、パリに続いてカンヌで公演した後、今はマルセイユを訪問したのだ。
「以上が崔承喜の話だ。 通訳を通じて伝えられる彼女の言葉は簡潔で優雅な笑みが添えられていた。そして故国の伝統衣装の韓服を着た(dans son kimon national)彼女は魅力的に見えた。
「明日の夜、崔承喜は独創的な舞踊衣装姿で、故国の詩と絵のような風景を語るだろう。 ウェゼン·エスカービィ(Eug ESCAVY)
ウェゼン·エスカービィは1928-1934年の間に「ル·ラジカル·ド·ヴォクリュズ(Le Radical de Vaucluse)」に97件以上の探査報道文を寄稿した主要執筆陣だった。 彼はマルセイユに居住しながらボクリューズの特派員の役割を担当したが、1935年からはマルセイユの主要日刊紙にもよく寄稿したことが確認された。 崔承喜インタビュー記事もその一つだった。 (jc, 2024/1/20)
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