私が鄭鴻永先生の著書『歌劇の街のもう一つの歴史:宝塚と朝鮮人』を読み始めたのは鄭世和先生が写真に撮って送ってくださったその本のチャプター2つからだった。 この本は1997年に初版が出て以来絶版になったためアマゾンでも買えなかったのだ。
ところが、約一週間後、鄭世和先生はその本を郵便で送ってくれた。 本の内容に対する質問が多くなると、いちいち写真を撮る煩わしさを避けて、ただ本全体を速達で送ってくださったのだ。 著者である父親の最後の所蔵本ではないかと思ったが、快く送ってくださったことがありがたかった。 私は気を引き締めて調査にはげむことにした.
『宝塚と朝鮮人』を読んでみると、鄭鴻永先生は歴史学を専攻したわけではないが、非常に実証的な研究をしていたことが分かる。 この本の第1部に収録された12の論文一つ一つが現場を直接踏査し、現地人の口述を土台に書き下ろされた充実した記録だった。
福知山線鉄道工事の犠牲者を調査した内容は、その本の第1部2章に出ている。 この本の付録「資料編」には「神戸又新日報」と「神戸新聞」の記事のスクラップが載っていた。 この資料編を事前に見ることができたら、鄭世和先生が神戸中央図書館に行き、マイクロフィルムを回して記事を探さなくてもよかったはずだ。
「神戸新聞」と「神戸又新日報」の1929年3月28日付けの記事で重要な糸口が示された。 まず、<神戸新聞>の記事にはダイナマイト爆発事故の死亡者2人と負傷者3人の名前が並んでおり、彼らが「朝鮮慶尚南道出身」と報道された。 殉職者縁故地の調査範囲が韓半島全域で「慶尚南道」に縮小されたのだ。 1つの新聞記事で調査対象の範囲が13分の1に大幅に減ったのだから、これが記録の力ではないかと思った。
次に<神戸又新日報>の記事はさらに一歩進んだ。 事故に遭った犠牲者らは「朝鮮慶尚南道固城郡固城面出身」とより具体的に報じた。 これは翌日、高速バスチケットを予約してもいいほどの具体的な住所だった。 番地数まで記されてはいないが、訪ねて探せる地域と官公庁が特定化されたからだ。
実際、私はこれらの記事を読むやいなや、すぐに古城に旅立ちたいと思った。 それが鄭鴻永先生のやり方だった。 堀内稔先生から「神戸又新日報」の記事をもらうやいなや、翌日、近藤富男先生とともに現場に駆けつけた。
しかし、鄭鴻永先生と私との間には根本的な違いがあった。 鄭鴻永先生は長年福知山線鉄道改修工事と朝鮮人殉職者に関する研究を進めてきたので、その地域と事故についてよく知っていた。 新しい情報が出るやいなや、すぐに現場調査に乗り出す準備ができていた。 親友の近藤先生までいたから、どんなに頼りがいがあっただろうか。
私も調査研究を手伝ってくれる先生たちがいることはある。 近藤、鄭世和、真銅先生などが彼ら。 しかし、私はまだこの地域に対する背景知識が足りず、事故についてもよく分からなかった。 神戸と宝塚を2、3度訪問したが、事故現場である西谷の切畑あるいは武田尾地域をよく知らなかったうえ、慶尚南道の古城についても知っていることが全くなかった。
そこで私はまず殉職者たちが従事していた福知山線鉄道工事がどんな工事だったのかを調べることにした。 特に、問題のダイナマイト爆発事故について、より詳しく調べることにした。 幸いなことに調査研究に必要な背景知識と状況、および文脈は鄭鴻永先生の『宝塚と朝鮮人』に詳しく述べられていた。
私は二つの新聞記事を読むや否や、『宝塚と朝鮮人』の第一部二章をもう一度読み直しながら、そのチャプターを翻訳した。 その本を几帳面に読む最良の方法はそれを翻訳することだと思ったからだ。 そのおかげで私は兵庫県宝塚山間地域で展開された朝鮮人労働者たちのつらい生活と彼らに降りかかった悲劇的な爆発事故についてよく知ることができた。 (*)
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