「日日新聞」と「朝日新聞」等が崔承喜の公演に優先順位を付与しなかった反面、東京の日刊新聞の中では「時事新報」が崔承喜の公演を最も早く報道した。
9月23日付の「時事新報」(7面)に掲載された「崔承喜の初舞台」というタイトルのボックス記事は、公演に対する事実報道というよりは評論の形式であり、筆者は永田生となっている。 これは評論者の名前が「永田生」という意味なのか、あるいは新潟出身(生)の匿名の評論者ということなのかは定かではない。 この評論記事の最初の文章は次のようだった。
「石井漠門下の女性舞踊家崔承喜が東京に於ての第一回舞踊公演(二十日,日本靑年館)は、時用夜にもかゝはらす、場に溢るゝ觀衆を得たことをまづ欣ふ。」
「場に溢るゝ觀衆」という表現から見て、崔承喜の東京デビュー公演は観客の面でも盛況だったようだ。 記事を額面通りに受け入れれば、劇場に観客がいっぱいになったという意味なので、日本青年館の客席定員2千人をすべて満たしたという意味として受け入れることができるだろう。
「時用夜」は日本の時間帯のためだ。 当時も朝鮮と日本は同じ時間帯を使っていたが、ソウルと東京の経度差が約12度なので、日の出と日没の時間が約50分程度差がある。
したがって9月20日頃にはソウルの日没時間が6時30分で夕暮れの余命が残っている時間だが、東京はそれより50分早い5時40分頃に日が暮れるので6時30分にはすでに真っ暗になった後だ。 しかも、公演が10時頃に終わったというので、東京はもう深夜だったのだ。
続いて「時事新報」は崔承喜公演の各部別演目を選別的に評価したが、まず第1部の現代舞踊演目について次のように解説した。
「第一部に於て「荒野を行く」「廢墟の跡」「あきらめ」の獨舞のうち漠の十年前振付にかゝると言ふ「あきらめ」を秀でたる舞踊とする、静ひっなる象徴、一点邪慢の気なく、幽清高爽、甚だいい。」
第1部の総評として、崔承喜の作品より石井漠の「あきらめ」を高く評価したのが特異だ。 だが、「あきらめ」の実演者も崔承喜だったので、師匠石井漠の「優れた」作品を弟子崔承喜が「一点邪慢の気なく、幽清高爽」の発表したという称賛として受け入れることができるだろう。
続いて評論者は第2部で発表された朝鮮舞踊5作品を一々挙名しながら、「姿態美と運動美」を「活潑霊爽たらしめたこと」を高く評価した。 彼はまた、このような作品を振り付けできたということは「平凡な才能ではない」と付け加えた。
「第二部の「剣の踊」「ェヘヤノアラ」「僧の舞」及び群舞「霊山の舞」「村の豊作」は、みな、それぞれに朝鮮郷土舞踊を新らしく考案創作して、姿態美、運動美を活潑霊爽たらしめたことは凡手にあらず、「剣の舞」「僧の舞」ともに甚だいい、もしそれ「霊山の舞」にいたりては三人舞踊形式の軽紗の衣袂、脈々として幽馥涼香の吹きくるものがある。」
評論者は特に3人舞の「霊山の舞」を別に挙名し、「幽馥涼香の吹きくるものがある。」と絶賛したが、特にダンサーたちの衣装の中で服の袖が「軽紗」だという点を指摘した。 一方、評論者の第3部の現代舞踊に対する総評は次のようだった。
「第三部に於ては「バルタの女」「習作」ともに小畑敏一君の照明すぐれ、殊に彼のヴアイオレツト光色をもちひた數々の舞臺色彩こそは誠に高雅、縱橫無碍に光りを扱ひこなしてきた彼に茂倆に感心をする、斯くはめたとて年少まだ名利に微るには早いのである。」
評論者は「バルタの女」と「習作」が優れていたと指摘したが、特にこれらの作品を際立たせた小畑敏一の照明を称賛したのが斬新だった。 踊りの動作とともに照明を褒めたのは舞踊衣装に対する称賛も含むことになる。 照明は舞台だけでなく、動くダンサーたちの衣装に加えられ、多彩な色彩を具現するためだ。
この公演で照明を担当した小畑敏一は、当代の優れた照明専門家だった。 1931年4月に発行された『映画科学研究第8集』に「神田日活館舞台の照明について」という文を掲載するなど、理論と実際の両面で卓越した照明専門家だったのだ。
小畑敏一は後日、映画製作者としても活動したが、これまで残っている作品としては人形劇映画である「ビールむかしむかし(1956.7.、電通映画社)」、ドキュメンタリー「太平洋戦争の記録(1956.8.、大映映画社)」、「桂利休(桂離宮、1959.6.、電通映画社製作、大映映画社配給」の3本がある。
評論者はまた、崔承喜の実験的作品である「習作」についても一文を割いて次のように評価した。
「崔(承喜)の習作は打樂器伴奏で極めて異色ある振付はAよりBに興味かかれど、自分はAに真率を觀る、Bに一抹、頹廢の感情あり、これポーデンウイゼール舞踊団などの紅毛人がもつ肉食的頹廢味と共通せるものを見たからである。」
この叙述で「ボーデンウィーゼル舞踊団」がどんな舞踊団なのか、なぜオランダ人(=紅毛人)が登場したのか、また肉食的退廃という言葉がどういう意味なのか、などは分からないが、筆者(=永田生)の意図は崔承喜の打楽器伴奏の独舞[習作A]が率直に感じられた反面、無音楽の2人舞[習作B]では退廃の味が感じられると告白したのである。
1930年代は日本の大衆文化がエロナンセンスに要約される時代だったので、「退廃的」という言葉は「エロティック(erotic)」か「グロテスク(grotesque)」か「ナンセンス(non-sense)」の場合だろう。
[習作B]は無音楽舞踊で崔承喜が男性役、紫野久子が女性役を担当した二人舞だったはずなので、この作品が「グロテスク」や「ナンセンス」の雰囲気を漂わせたはずはなく、おそらく評論者はこの作品でエロの感じを受けたのではないか、推察される。
最後に評論者は崔承喜の舞踊の短所を次のように指摘した。
「さて、崔承喜の舞踊にこの上屋むものはなんだらう、それは彼女の大きな感じの舞踊のなかに、纖細なる感動を托し得べき技巧である、然しこれは崔のやうな肉體女性にはㅌ得し能はめことかも知れぬ、崔に似たる外の女性舞踊家の數多くが、みなおほまかなㅌで終始して居るからである、然し崔の情熱は鍛鍊、この技を加ふることがあらうやも知れぬからㅌんでㅌく次第である。[永田生]」
要するに、崔承喜の大きくて大胆な踊りが長所ではあるが、強さが足りないという指摘だ。 しかし評論者は、不断に努力する崔承喜の情熱から推し量り、このような短所もすぐに克服されるだろうと展望したのだ。
「時事新報」の評論者が崔承喜の東京デビュー公演を「超舞台」と指摘したことが意外かもしれない。 崔承喜は1926年6月12日、大阪中之島の公会堂で「グロテスク」として生涯の初舞台を経験し、その年の6月22日、東京邦樂座で「魚の踊」として東京の初舞台に上がった。
また、崔承喜は石井舞踊団の研究生だった1927年10月15日、京城公会堂で「セレナーデ」として朝鮮の初舞台を踏み、その後1930年2月1日には石井舞踊団から脱退した後、独自に設立した「崔承喜舞踊研究所」主催で第1回舞踊発表会を開催したこともあった。
しかし、1934年9月20日の東京デビュー公演は、師匠石井漠の許諾の下、正式に独立舞踊家として認められる最初の公演であり、そのような意味で「時事新報」の評論者は崔承喜の東京デビュー公演を「初舞台」と呼んだものと推察される。 (jc, 2024/8/29)
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