崔承喜の東京デビュー公演直後、新聞と雑誌がこの公演をあまり記事にしなかったのは意外だ。 「朝日新聞」や「日日新聞(=後日の毎日新聞)」は全く報道しておらず、日刊新聞では「時事新報」の記事が唯一だ。
これは当時の朝鮮でも同じだった。 [東亜日報]と[朝鮮日報]はもちろん、「毎日新報」などの韓国語新聞も東京公演前にはたまに紹介記事を報道したが、公演が終わった後にはただの一件の記事も出さなかった。
1934年9月22日付[朝鮮中央日報(呂運亨)]が唯一崔承喜の東京公演記事を掲載したが、これは前日報道された[京城日報]の記事を翻訳して転載したものと見られる。 (このような慣行を別名「ウラカイ(裏返)」という。)
これは「朝鮮新聞」や「釜山日報」などの朝鮮で発行されていた他の日本語新聞も同様だった。 後日、この公演が崔承喜の未来だけでなく、日本舞踊界と朝鮮舞踊界に及ぼした大きな影響を考えれば、当時の言論は過度に静かであり、反応がなかったのだ。
唯二の例外があるとすれば「アサヒグラフ」と「横浜グラフ」だった。 朝日新聞の写真雑誌「アサヒグラフ」は1934年9月26日付の紙面に崔承喜の「バルタの女」の写真を載せたものだ。 この写真に貼られた説明は次のようだった。
「新舞踊界の一異才: 朝鮮の生んだ舞踊家で石井漠の門下として新舞踊フアンに馴染の深い崔承喜の新舞踊第一回發表會が去る20日の夜、日本靑年館で開かれ、朝鮮舞踊5種などの獨舞のものゝ他に、一般的新舞踊の振付演技に於ても勝れたる才能を示した。寫眞は「バルダの女」を踊る崔承喜で、印度の未亡人の心境を表現した特異の舞踊である。」
この写真説明で崔承喜を「異才」と呼んだことが注目される。 「色違いの人材」あるいは「特別な人材」という意味だ。これは同誌の同じ面と向かい側に掲載された舞踊写真と比べてみると自明になる。 ほとんどすべての他の舞踊家の舞踊写真は千篇一律的に日本式服装の日本式舞踊だが、崔承喜の舞踊作品は今日の視点から見てもすぐに「現代舞踊」と分かるからだ。 これは石井舞踊団の特徴でもあった。
この記事の写真は「バルタの女」の写真で唯一公開された写真だが、これでこの作品の舞踊衣装がどんなものだったのかが分かるようになった。 しかし、不思議な点は「印度人未亡人」の服装としては非常に異例的だという点だ。 それよりは「アメリカンインディアン」の服装に近い舞踊衣装ではないか、疑問に思う。
また、横浜の写真雑誌「横浜グラフ」の1934年9月29日付にも崔承喜の舞踊写真が一枚掲載された。 この写真は崔承喜公演のプログラムにも載せられたものだが、これは打楽器伴奏の[習作A]の写真だ。 この写真に加えられた「横浜グラフ」の説明は次の通りだった。
「在浜朝鮮同胞の有志に依つて組織されてゐる愛隣園では、杉田方面の海苔採取婦人の為め海岸に託児所の建設を計画、この資金募集に三十日夜開港記念会館に於て朝鮮音楽と舞踊の夕を催したが、古き歴史と他に類なき特異性を有する未知の芸術に、観衆を幽明の境地に導いて陶然させ、殊に石井漠門下の俊才崔承喜嬢の朝鮮古曲による新しき創作舞踊の妙技は満場の絶讃を博した。 (写真は踊る崔承喜嬢)」
つまり、崔承喜は東京デビュー公演(9月20日)を終えた後、10日後の9月30日、横浜の「開港記念会館」で「朝鮮音楽と舞踊の夜」行事に参加して舞踊作品を披露したのだ。
この時、どんな作品が上演されたかは記録に残っていないが、おそらく東京公演で発表した作品を抜粋したものであり、その中には朝鮮舞踊が大部分だった一方、おそらく好評を得た[習作A]も発表に含ませたものと見られる。 (jc, 2024/8/29)
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