崔承喜の創作と公演活動において安漠の役割が非常に重要だったのは事実だが、その役割はしばしば誇張されたり歪曲されたりした。崔承喜の短髪が安漠の提案だったとか、安漠というペンネームは崔承喜の師匠である石井漠の名前を模倣したものだという記述がそうである。
崔承喜が安漠と結婚したのは1931年5月だったが、崔承喜は1926年8月に自分のトレードマークとなった「前髪のないショートボブカット(short bobcut without bangs)」を始め、1944年7月までこのヘアスタイルを変えなかった。
この時は、崔承喜が舞踊留学を始めて約4ヶ月が過ぎた頃で、1924年にアメリカのダンサーで映画女優のルイーズ・ブルックス(Louise Brooks, 1906-1985)が始めたエジプト王女スタイルのボブカット(bob cut)がその頃日本に上陸し、大流行していた。
崔承喜はルイーズ・ブルックスのエジション・ボブカットを採用したが、他の日本人女性と違って前髪をまっすぐに切らなかった。このような崔承喜の短髪は安漠と出会う約5年前に始まったので、この短髪が安漠の提案だったというのは時期的に不可能な主張である。
安漠が安弼承という本名の代わりに安漠というペンネームを使ったのは、崔承喜の師匠である石井漠の名前を模倣したからだという主張も誤りである。すでに筆者は別の文章で、評伝の中でこの主張を収録したのは鄭秀雄(2004)と姜俊植(2012)だけであり、鄭昞浩(1995)は「安漠」という名前が石井漠を模倣したのではなく、「某雑誌社がつけてくれた筆名」と反論したことを明らかにしたことがある。
にもかかわらず、今日の多くの研究書やインターネットの投稿では「安漠というペンネームは石井漠を模倣したもの」という主張が繰り返されている。ファクトチェックに徹底しているというウィキペディアも例外ではなかった。 この主張はすでに根拠のない都市伝説(urban legend)になってしまったのだ。
安弼承が崔承喜と結婚したのは1931年5月で、彼女と初めて会ったのはその数ヶ月前なので、1931年2月ごろだった。 しかし、安漠というペンネームが新聞記事に登場したのは、少なくともそれより2年前の1929年7月だった。1929年7月16日の「東亜日報」の記事に彼の名前が安漠と紹介されていたのである。崔承喜と出会うずっと前のことだ。これについて崔承喜も「私の自叙伝(1936: 93-94)」で安漠に初めて会った時のことを回想し、次のように述べている。
「安弼承は安弼承といふ名よりも安漠といふ名で通つてゐました。後にたつて石井先生の御名を無斷で拜借してゐるが、怪しからんといふやうな噂も出ましたが、安漠といふ名は自分で付けたものではなく執筆してゐた新聞社が勝手に付けたペンネームで、それが一般の彼を呼ぶ名となつてしまつたのです。」
鄭昞浩(1995)は「某雑誌社」が、崔承喜(1936)は「新聞社が」つけたペンネームだとしました。安漠が雑誌社と新聞社に発表した文章をすべて調べてみると、安漠の文章を最も多く掲載した新聞は「中外日報」だった。1930年の1年間だけでも、「マルクス主義芸術批評の基準」、「組織と文学」、「朝鮮プロ芸術家の当面の緊急の任務」など、長文の評論を次々と連載しながら「中外日報」の筆陣として活躍し、この文章はすべて「安漠」という筆名で寄稿された。
「中外日報」が安弼承(1910~?)に筆名をつけたのは、2つの理由によるものと思われる。まず、同姓同名の文筆家安必承(1909-?)と区別するためだった。 彼は安漠と同じ時期に文芸活動を始め、「中外日報」をはじめとする日刊新聞や文芸雑誌に精力的に寄稿していた。
彼は「禽獸会議録」の作家安國善の息子ですでに有名人であり、後に安懷南と改名した。「中外日報」がこの二人を区別するために、安弼承に安漠というペンネームをつけたと思われる。
第二に、安漠という筆名が社会主義リアリズムの評論家である安弼承に適切だったからであろう。漢字の漠は「マルクス」を音読みするためによく使われていたのである。 (jc, 2023/12/25)
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