「宝塚朝鮮人追悼碑」に刻まれた碑文によると、この追悼碑の建立を担当したのは「追悼碑建立の会」と「宝塚市外国人市民文化交流協会(以下「交流協会」)」、「木蓮会」の3団体である。 追悼碑建立の理由と日付の次にこの三団体の名前が並んで刻まれている。
鄭桂香先生の論文(19:146ページ)は、3団体を比較的詳しく記述している。 最初にできたのは<交流協会(1996)>である。 1990年代初め、金禮坤(キム·イェゴン)先生が自分の会社に日系ブラジル人を数十人雇用し、彼らが経験する言語問題と居住問題を解決する過程で「交流協会」を設立した。 最初は外国人の問題を解決するために活動したが、時間が経つにつれ、在日朝鮮人のための活動の比重が大きくなった。 創立者で初代会長の金禮坤先生が在日朝鮮人で、宝塚に居住する外国人の大半が在日朝鮮人だからだ。
金禮坤先生の事業経営過程を通じて作られた広い交流範囲のおかげで、<交流協会>には宝塚や神戸など、兵庫地域の在日朝鮮人と日本人が多く参加している。 ここには政界、財界、文化界の要人が多く含まれているが、彼らは知識人集団がほとんどいなかった宝塚の在日朝鮮人の活動に大いに役立った。
<交流協会>が追悼碑建立に関心を持つようになったのは2010年頃である。 <神戸水道工事>と<福知山線改修工事>の犠牲者たちを発掘した鄭鴻永先生が2000年1月に他界した後も、近藤富男先生は鄭鴻永先生とともに始めた追悼と祭祀を続け、在日朝鮮人はもちろん日本人の参加を要請した。 追悼祭事の範囲が拡大し、「交流協会」もこれに加わったとみられ、2013年には近藤先生も「交流協会」に加入し活動を始めた。
追悼碑建立の問題が具体化し、ついに2017年5月、「神戸水道建設工事および旧国道福知山線改修工事中の死者追悼碑建立の会」(以下、「追悼碑建立の会」)が発足し、近藤先生が会長に選任された。
一方、鄭桂香先生の叙述(460ページ)によると<木蓮会>も追悼碑建立のために結成された団体である。 「<木蓮会>の会長は近藤先生、共同会長は金禮坤先生」で、「発起人として参加した人は二人の代表を含む23人で、在日朝鮮人と日本人が混じっており、このうち相当数の人は<交流協会>の会員」だったという。
追悼碑の建立に努めた三つの団体の代表者は<追悼碑建立の会>の会長が近藤先生、<交流協会>の顧問が金禮坤先生、そして<木蓮会>の共同会長が近藤先生と金礼坤先生であった。 結局、「宝塚朝鮮人追悼碑」の建立は金禮坤·近藤富男両氏の主導の下、宝塚の「交流協会」と大阪の「木蓮会」会員たちの積極的な協力によって実現した。
もちろん、追悼碑建立に協力したのは彼らだけではなかった。 兵庫県と大阪府の多くの在日朝鮮人と日本人が、時間と努力と金をかけて建立運動に乗り出した。 中には、追悼碑建立のための様々な集いに欠かさず参加し、議論内容を広報するのに先頭に立っていた人々もいれば、自らの才能を寄付し、追悼碑が今の形になるよう努めた人々もいた。
近藤先生の話によると、「絶対に名前を明かさないでほしい」という前提の下、追悼碑の彫刻と装飾、そして設置に至るまでの実作業を担当した在日朝鮮人もいた。 彼は玉野勢三先生の追悼碑のデザインを受け、それを石に刻んで飾る仕事を自ら担当し、そうやって自分の手で完成した追悼碑を見て、生きがいを感じたという。
その他にも「交流協会」や「木蓮会」、「追悼碑建立の会」などの会員でないにもかかわらず多くの日本人や在日朝鮮人が追悼碑建立に参加したという。 「宝塚朝鮮人追悼碑」は参加団体やその指導者だけでなく、その趣旨に同調する多くの参加者の声援によって建てられたものである。 (*)
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