1931年12月6日の公演で崔承喜は筏橋の観客にどんな作品を上演したのか? 筏橋民の反応はどうだったのだろうか? 歓呼と喝采を送ったのだろうか、それとも初めて見る近代舞踊に混乱した表情をしたのだろうか? どんな作品が一番良い反応を起こしたのだろうか? 揶揄された作品はなかったのだろうか?
不幸にもこのような質問に答えてくれる崔承喜筏橋公演の演目に関する資料は発見されていない。 公演プログラム、あるいは地域新聞や雑誌に掲載された感想文や批評文があれば、演目の構成と公演に対する観客の反応を把握することができるが、筏橋公演に対する文献資料は1931年11月24日付<東亜日報>に載せられた一文の短信記事が全てだ。
この記事は崔承喜が來演したということと公演の日時と場所を除いては何の追加情報もなかった。 したがって、演目と観客の反応について調べるためには、推論に頼らなければならない。 幸い、筏橋公演前後の状況をよく見れば、少なくとも演目に関する情報は推論できる。
崔承喜舞踊研究所の公演過程には一定の規則があった。 まず京城で新作発表会を開催した後、その演目を持って地方巡回公演を断行することが順序だった。 これは崔承喜が東京舞踊留学時代、師匠の石井漠から直接学んで経験したことだった。
石井漠が新しく創作した作品は東京公演で初めて披露されるが、度重なる地方巡回公演を通じて整えられたりもした。 同じ作品の公演回数が増えるにつれ、ダンサーの熟練度が高くなり、むしろ地方の観客が首都圏の観客より洗練され成熟した作品を鑑賞することができた。
崔承喜も同じ方式を選んだ。 1931年9月16日付の『東亜日報(7面)』は崔承喜の馬山公演を紹介し、「崔承喜舞踊研究所一行は今回、新作舞踊を発表すると同時に、南朝鮮地方を巡回中」と報道した。 馬山公演の演目が京城公演の演目と同じであることを示唆したのだ。
10月13日付の『毎日新報』(7面)も「舞踊家崔承喜は京城で新作舞踊を発表した後、地方公演の第一歩として13日、海州劇場で新作舞踊発表会を開催する」と報道した。 京城で発表された新作舞踊演目が海州でも繰り返されることを知らせたのだ。 また、10月31日付の東亜日報(7面)も開城公演の演目が「新作舞踊公演会」のそれと同じだろうと叙述した。
つまり、崔承喜は1931年9月1日に団成社で公演した第4回新作発表会の演目を持って水原(9月13日)をはじめ、金泉(16日)、大邱(17日)、密陽(21日)、馬山(22日)、晋州(23日)、統営(25日)、鳥致院(11月24日), 清州 (25日), 大田 (26日), 全州 (29日), 群山 (30日), 木浦 (12月4日), 光州 (5日), そして筏橋 (6日)公演を行ったのことである。
したがって、12月6日の筏橋公演の演目は、2日前の木浦公演と1日前の光州公演の演目とほぼ同じだっただけでなく、3ヶ月前の9月1日の京城<団成社>公演の演目と大同小異だっただろう。 1931年9月1日付の『毎日新報』(5面)は、第4回新作発表会の14作品を次のように紹介した。
「第1部, 1.世界の歌(研究生一同); 2.自由人の踊り(崔承喜); 3.土人の哀史(金敏子,趙英淑); 4.未来は青年のものだ.(盧載信,金敏子,李貞子,郭敬信,朴貞任); 5.番外:夜曲(盧載信).
「第2部, 1.人造人間(崔承喜,盧載信,馬突); 2.靈魂の叫び(研究生一同); 3.鉄のような愛(男:崔承喜、女:金敏子); 4.苦難の道(崔承喜他研究生); 5.番外: 異国の夜(李貞子,盧載信).
「第3部, 1.嵐(崔承喜他研究生); 2.幼い勇士(郭敬信, 趙英淑, 李貞子); 3.十字架(崔承喜); 4.建設者(崔承喜他研究生)」
9月1日の京城公演の演目が3ヶ月後に開かれた筏橋公演の演目と完全に一致したかは定かではない。 崔承喜はダンサーの熟練度と表現力、そして観客の反応を考慮しながら、各地方公演の演目を調整したりしたからだ。 しかし、筏橋公演の演目が第4回新作発表会の作品の範囲から大きく外れていなかったことだけは事実だろう。 (jc, 2022/05/26)
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