蔡重鉉が地主であり能力のある事業家であり、教育事業に深い関心を持ったということは分かったが、そのような人物が劇場を建設したという点には依然として疑問が残った。 それで蔡重鉉が宝城と筏橋で文化事業に関与したことがあるかも調査してみた。
1925年8月22日の『東亜日報(5面)』は、筏橋で水害救済音楽大演奏会を開催したと報道した。 「筏橋青年会と京城学友会主催で8月15日午後8時30分に筏橋公立普通学校で」開かれたこの音楽大演奏会には「20種類余りの音楽と遊戯と舞踏など」が試演されたが、入場料は「普通20銭と小児10銭」であり、この演奏会を通じて筏橋の有志30人が水災義金44圓50銭を募金したが、このうち蔡重鉉は10圓を寄付、全体募金額の約2割を充当した。
1925年の10円は、歴史的国際為替レート表によると、2015年の約4万円(賃金ベース)、韓国圓では約40万圓に当たる。 しかし、1923年に釜山府が編纂した『釜山府勢要覧(1924、188-193ページ)』によると、米3升(約5kg)が1圓、非熟練の肉体労働の日当が1圓だった反面、2024年に韓国の米5kgが5万圓、非熟練の肉体労働の日当が16万圓であるため、実物感覚では1925年の10円は今日の50万圓(米価基準)または160万圓(非熟練賃金基準)に該当する。
1925年8月18日、筏橋では全南順天夏期児童講習所の主催で少女歌劇団の公演が開かれた。 1925年8月27日の『東亜日報(3面)』は、この歌劇会を観覧した「当地の一般人はとても感動し、大いに称賛した」と報道した。 蔡重鉉は、この少女歌劇団の公演にも5圓を寄付した。
1925年11月26日の『東亜日報(3面)』は、朝鮮少年軍の南鮮地方巡回活動写真宣伝隊一行が11月18-19日、時代日報-朝鮮日報-東亜日報の3支局の後援で映画上映会を開催し、このために蔡重鉉は5圓を寄付したと報道した。
1933年5月9日の『東亜日報(5面)』によると、筏橋商工会主催で5月6日夜、筏橋倶楽部(=筏橋劇場)で地方有志を招待して商工会創立祝賀音楽会を開いたと報道し、この場で蔡重鉉は再び10圓を寄付した。
このように筏橋の文化行事のために寄付してきた蔡重鉉は1936年にはスポーツ界を後援した経緯がある。 1936年6月3日の『東亜日報(3面)』は蔡重鉉が「朝鮮ボクシング界の重鎮として一時その名を馳せた李龍植(イ·ヨンシク, 当時29歳)」を後援したと報道した。 李龍植は元山生まれで10年前にフェザー級日本選手権を獲得し、1932年にはハワイ国際選手権大会で優秀な成績を収めた後、京城でオリンピックボクシング会を組織した名士で、東京で活動する朝鮮人ボクサーたちを組織するために日本に渡ることにしたのを蔡重鉉が後援したという。
このように蔡重鉉は経済界と教育界だけでなく文化界とスポーツ界に至るまで多様な行事を組織したりあるいは各種行事を後援した経緯があるが、1930年の筏橋劇場建設もそのような文化行事が圓滑に進行されるようにするための方便だったと見られる。
蔡重鉉が建設した筏橋劇場の最初の名前は「筏橋倶楽部」、すなわち「筏橋クラブ(club)」だった。 1930年12月9日の『東亜日報(3面)』によると、「全羅南道筏橋浦は5千人余りの人口が居住し、文化的なすべての施設がほぼ揃った少なくない都市で、市民が集まって公私間協議できる場所がないことを遺憾に思う」としていたところ、「今回の倶楽部を当地の中央支店である新市場の下段に1千8百圓余りの少なくない金額で建坪約130坪に千人以上収容できる工事が近日に終わった」と報道し、「12月6日午後に落成式を行った」と報道しながら、これは「蔡重鉉氏が提供した会館」と副題を付けた。
1930年12月14日の『朝鮮日報(7面)』も「蔡重鉉さんが··· 筏橋新市場の隣接地に4千圓余りの巨額をかけて倶楽部式公設劇場を新築」したと報道し、「12月6日午後3時から落成式と披露宴を開いた」としたが、「余興で朝鮮名唱里華中善兄弟の声楽」が公演されたと付け加えた。
すなわち、蔡重鉉が筏橋劇場を設立したのも突然のことではなく、普段後援してきた筏橋の文化事業を増進するための方法の一つだったと理解される。 (jc, 2025/3/31)
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