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최승희1931벌교

[崔承喜1931筏橋公演] 4.筏橋倶楽部

筏橋劇場設立らせる記事筏橋倶楽部という名前がよく登場する。 「クラブとは英語club日本語発音これを発音漢字表記したものだ倶楽部建物名前ではなく(meeting)名前だがよくそのいがわれる会館倶楽部んだりもしたものとられる

 

韓国史最初登場した倶楽部済物浦倶楽部貞洞倶楽部である朝鮮1976日本との江華島条約開国したロシア1880)、米国1882)、イタリア1884)、ドイツ1886)、フランス1886などとも通商条約ぶと欧米商人外交官朝鮮駐在朝鮮関門だった済物浦一帯各国租界地設置された

 

 

青山好惠仁川事情(1892)によると租界国外交官商人宣教師たちが共同関心事追求外交活動目的1891済物浦倶楽部という社交クラブを結成した

 

済物浦倶楽部1901ブリキ屋根ったレンガ2階建ての建物新築倶楽部会館にした会館内部には社交室図書室ビリヤードなどがあり屋外にはテニスコートがあった

 

 

1901622開場式では宣教師ホレース·アレン(Horace Newton Allen安連1858~1932)フランシス·アレン(Frances Ann Allen)イギリス公使ハーバート·ゴーフェ(Herbert Goffe)祝賀演説をしたとえられている

 

一方漢陽駐在西洋人たちは189262外交官および領事団まりを結成これをソウルクラブSeoul Club)」んだソウルクラブの会館として高宗徳寿宮内重明殿提供したが実際会合頻繁われたのはアントワネット·ソンタック(Antoinette Sontag孫澤1854~1925)高宗後援設立運営したソンタックホテル(1902-1909)だった

 

 

済物浦倶楽部会館1901とソンタクホテル1902どちらもロシアの建築家アファナシ·セレディン·サバティン(Афансй И ч Свнод дед С-бат、1860-1921設計した作品だという主張がある文献証明されたわけではないがこの主張事実ならセレディン·サバティンは韓国史初2つの倶楽部会館設計者であるわけだ

 

外交官宣教師クラブでまった倶楽部日本による植民地時代まってから性格わった一方では趣味中心同好人会名前として使われ他方では各地域地主事業家社交会として位置づけられた

 

 

老人倶楽部(毎日新報 191110202)文芸倶楽部(毎日新報 19131282)読者倶楽部(19134263)囲碁倶楽部(釜山日報19151101)などが前者であり鎮海倶楽部(釜山日報,1915130,1),尚州倶楽部(釜山日報,1915210,3)泗川倶楽部(釜山日報,19152219)蔚山倶楽部釜山日報1915321)、義州青年倶楽部東亜日報19204124)、群山庚申倶楽部東亜日報1920544)、論山青年倶楽部(東亜日報1920584)後者だった

 

日本による植民地時代地方有志だった倶楽部なる社交ではなく共同利益追求したり葛藤調整するであり多数日本人少数朝鮮人構成された場合かった

 

 

筏橋にも倶楽部結成されたその創立日報道されなかったが192511月号<開闢(63110-111)>せられた車相瓚(チャ·サンチャン)全羅南道踏査記筏橋倶楽部言及されなかった反面1926525<朝鮮日報(1)>筏橋倶楽部臨時総会かれたという記事報道されたので筏橋倶楽部1925年末1926年上半期結成されたものとられる

 

筏橋倶楽部1926813南朝鮮庭球大会後援(朝鮮日報19268101)するなど活発活動けながら常設会館劇場必要性まるや1930126日蔡重鉉出捐筏橋倶楽部会館として<筏橋劇場>建設されたのだ(jc, 2025/5/1)