すべてのことは一枚の埋葬認許証から始まりました。1914年8月3日、兵庫県宝塚市の西谷村役所が発行した金炳順さんの埋葬認許証です。
この埋葬認許証は、1985年1月に宝塚地域史家の鄭鴻永(1929-2000)先生によって発掘されました。金炳順さんが亡くなってから71年後のことです。 彼の著書「歌劇の街のもう一つの歴史:宝塚と朝鮮人(1997)」で鄭鴻永先生はこう書いています。
「私が神戸水道の建設工事にたずさわつた朝鮮人のことを初めて知り、調べるようになつた最初のきつかけは、宝塚市史編纂室に保存されていた古い埋葬認許証であつた。一九八五年の初めから春頃にかけて、私は当時まだ逆瀬川の宝塚市中央公民館二階の4室にあつた市史編纂室に何回となく足を運んだことがある。市制施行前の旧良元、小浜、長尾、西谷各村の資料の中に、朝鮮人に関する記述が残つていないかを調べるためであつた。
「何度も通つているうちにそこに勤めておられた市史編集担當主査の若林泰さんと懇意になり、... ある日、取り立ててこれといつた用事もなかつたが、近くを通りかかつたので立ち寄つたところ、私の顔を見るなり若林さんは、「あ、鄭さん、ちょうどよかつたわ。連絡しようと思うてましたんや。こんなものがあつたんやけど何か参考になりますかいな」 といつてコピーしたものを三枚見せてくれた。手にとつて見るとそれはいずれも朝鮮人の名前が記された旧西谷村役場発行の埋葬認許証の写しであ。」
金炳順, 南益三(ナム・イクサム)、張長守(チャン・チャンス)の3人の埋葬認許證には死因が記録されていませんでした。 鄭鴻永先生は近藤富男(1950-2022)先生と一緒に彼らの死因を調査し始めました。
二人の調査によると、1914-1915年に神戸水道拡張工事が行われ、生瀬から上ヶ原に至る山間部を通るために13本のトンネルが掘削され、そのうち第6号と第7号のトンネル工事が西谷の玉瀬付近で1914年2月18日から1915年2月23日まで行われたことがわかりました。まさにこのトンネル工事で、金炳順氏が事故死したのです。
二人は、金炳順氏が近隣に埋葬されているのではないかと推測し、1985年夏から1986年秋にかけて西谷全域を隈なく調査し、その地域の年長者を聞き込みました。
研究チームは、波豆在住の福本實二さん(元測量技師)と竹田尾在住の松本文美さん(料理旅館紅葉館の女将)への聞き取り調査で、神戸水道工事で事故死した朝鮮人が多かったことを確認し、大原野在住の光国光さん(郷土史家)の協力を得て、朝鮮人の埋葬墓と思われる場所を調査しました。
朝鮮人の埋葬墓は「玉瀬の墓地から少し離れた小高い山の中」でした。 ここは玉瀬村の共有地で「牛や馬が死んだときに埋める馬墓」であり、玉瀬の墓地が狭くなると、ここが人の墓地として使われるようになったという村人の証言も聞きました。
彼らは、埋葬墓とは別に参拝墓を別に用意するこの地域の習慣も調査しましたが、参拝墓まで探しに行くことはなかったようです。村人ではなく、朝鮮人労働者のために参拝墓まで用意されているとは確信が持てなかったようです。
しかし、朝鮮人のための參拜墓は用意されており、2020年1月に発見されました。玉瀬の仏教寺院・滿福寺の住職である足立智教さんが、「宝塚朝鮮人追悼碑」建立の知らせを聞き、宝塚の活動家である大黑澄枝さんに、3人の朝鮮人參拜墓が滿福寺の近くにあり、100年以上も前から村民が慰霊祭を行っていることを教えてくれたのです。
大黑澄枝さんは、この知らせをすぐに近藤富男先生に伝えました。近藤富男先生が鄭鴻永先生とともに1985年に始めた朝鮮人犠牲者調査が35年ぶりに完結する瞬間でした。鄭鴻永先生はすでに2000年に他界していたのです。 (jc, 2023/12/15)
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