崔承喜の宝塚公演が遅れて急造された公演ではないもう一つの理由は、劇場のためだった。 宝塚大劇場は1~2週間前に急に貸館できる劇場ではなかったためだった。
崔承喜が公演した宝塚大劇場は1924年7月に開館した4千席の超大型劇場で、よく初代宝塚大劇場と呼ばれる。 この初代大劇場は、今日の二代大劇場が1992年に武庫川沿いに建てられるまでの68年間、宝塚少女歌劇団の作品が上演されたところだ。
宝塚少女歌劇団は1913年阪急電鉄会社の創始者小林一三(1873-1957)が結成した「宝塚唱歌隊」が母体だ。唱歌隊は同年12月「宝塚少女歌劇養成会」に改称され、1914年4月1日に初公演を行った。 初公演の劇場は宝塚新温泉の室内プールを改造したパラーダイース劇場(500席)だった。
1919年3月、小林一三は「宝塚少女歌劇養成会」の名前を「宝塚少女歌劇団」に変えた。 彼はまた、宝塚の東側に位置する箕面市の公会堂を買い取って宝塚に移築、これを「新家劇場(1,500席)」と命名したが、一般人はこれを「公会堂劇場」と呼んだ。
当時、宝塚少女歌劇団は2組が結成されていて、二つの劇場の舞台に戻りながら年間24回の公演を提供した。 宝塚少女歌劇団の団員になるためには宝塚少女歌劇音楽学校を卒業しなければならなかったが、上級クラスの生徒たちを1組、下級クラスの生徒たちを2組と呼んだ。 1組は主に公会堂劇場で、2組は主にファラダイース劇場で公演した。
この頃から宝塚の二つの劇場では宝塚少女歌劇団の団員だけが舞台に立つことができるという規則ができ、1921年10月15日から宝塚少女歌劇団の1組を花組、2組を月組と呼び始めた。
1923年1月22日、公会堂劇場で始まった火災でパラーダイース劇場まで全焼した。 その年の秋パラーダイース劇場(=以後小劇場)と新歌劇場(=以後中劇場)が再建され、1924年7月には宝塚大劇場が完工した。
大劇場の開館とともに宝塚少女歌劇団は3回目の公演組である雪組を結成、以後3組が3つの劇場で年間36の公演を続ける体制が確立された。 宝塚の3つの劇場には、歌劇団員だけが舞台に立つことができるという規則が不文律に固まった。
1933年には星組が追加で結成されたことで、宝塚少女歌劇団は4組の公演団が3つの劇場を回りながら公演を行い、必要に応じて日本国内の他地方公演や海外公演を断行することもあった。 (1940年に宝塚少女歌劇団は名前を宝塚歌劇団に変え、1984年に専科、1998年には宙組を追加で構成し、今日では計6組の公演団が活動している。)
したがって、崔承喜の宝塚公演があった1935年11月には、4つの公演組が3つの劇場で順演するスケジュールが確定し、入場券が前売りされていたため、特に大劇場を貸館することは難しかっただろう。 しかも宝塚の3つの劇場は少女が劇団だけを公演するように使用が制限されるという規則があったため、普通の場合なら崔承喜が1、2週間の間に大劇場を貸館することは不可能だった。
それにもかかわらず、崔承喜の宝塚大劇場公演が実現したが、これは事前に十分な協議があったためだと推察できる。 すなわち、宝塚少女歌劇団がスケジュールを調整して崔承喜舞踊団を特別招待したとすれば、大劇場公演が可能だっただろうし、この特別招待を崔承喜側が受け入れたと見るのが合理的だろう。
宝塚少女歌劇団の招待と崔承喜舞踊団の受諾は、少なくとも大阪公演企画が始まった1935年9月中旬以前に宝塚公演企画も同時に行われただろうし、以後もこの公演のための両者間の協議と調整が続いたものと推測できる。 (jc, 2025/1/30)
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