崔承喜の舞踊公演を取材してみると、小さな糸口が重要な発見を導くこともある。 地方や海外公演が特にそうだった。 京城や東京の公演については多くの記録と画報が残っているが、地方公演や海外公演の資料は比較的制限的だが、したがって地方公演と海外公演の資料は些細に見える情報でもこれを几帳面に扱う必要がある。
例えば、崔承喜の師匠である石井漠の公演を調査している途中に発見された写真一枚が、崔承喜の初舞台が東京の邦樂座(1926년 6월22일)ではなく、大阪の公会堂(1926年6月12日)であることを推論できるようにした。 この推論は、追加調査で確保された1926年6月10日付の大阪毎日新聞の記事で確認された。
欧州でも同様の事例があった。 カンヌ公演(1939年2月26日)とマルセイユ公演(3月1日)の日程と動線が異例だったが、パリから出発した崔承喜がマルセイユよりカンヌで先に公演をしたためだ。
当時、マルセイユはフランス革命150周年を記念する行事が開かれていて、安漠と崔承喜はそのような革命祝賀雰囲気のマルセイユで3月1日に合わせて三一万歳運動20周年記念公演をしたかったことを推論することができた。 この推論は他の資料によって裏付けられなかったが、重要な仮説として叙述され議論される価値がある。
1935年の大阪と神戸公演の取材記を書きながら「次は京都と宝塚公演」になると予告した。 ところが、ここでも崔承喜の公演日程と動線に異常な点が発見された。
『崔承喜パンフレット第2集(1936年3月10日発行)』によると、崔承喜は大阪(1935年10月25日)、神戸(26日)の公演を終えた後、岡山(27日)、呉(29日)、広島(30日)などの中国地域で公演した後、関西に戻って京都(11月8日)と宝塚(9日)の公演を行った。
この日程と動線が疑問だった。 京都と宝塚は関西の都市なのに公演を延期した理由が気になった。 どうして広島まで行って帰ってきて京都と宝塚公演をしたんだろう?
最初は京都と宝塚が大阪と神戸から近いためだと推測した。 宝塚と京都は神戸と大阪から公共交通機関でも1時間以内の距離だ。 大阪と神戸の公演が京都と宝塚の観客をすでに吸収したため、追加公演が必要ではなかっただろうと推論したのだ。
では、崔承喜はなぜ2週間後に関西に戻って公演したのだろうか? 潜在観客に対する計算と企画が間違っていることを発見し、京都と宝塚の公演を急造したのだろうか?
そういうこともあったはずだ。 1930年の京都の人口は77万人で、神戸市の79万人とほぼ同じだった。 宝塚は今も人口が22万人の中小都市だが、1930年代の年間観光客の数が1千万人を超える観光都市だった。 崔承喜の公演を独自に消化するのに十分だったという意味だ。
評論家たちは崔承喜の公演を企画する夫,安漠の見識と推進力が卓越していたことを指摘したりもした。 周到な安漠が京都と宝塚公演の潜在性を見落としたはずがない。
それなら、崔承喜の京都公演と宝塚公演が後に延期されたことは、ミスを挽回するために急造されたものではないと見るべきだろう。 2週間おきに関西公演を1次(大阪と神戸)と2次(京都と宝塚)に分けて行ったのは、最初から企画されたものだという意味だ。
この文は1935年の関西2次公演がどのように準備され実行され、その結果は何だったのかを探る。 特にこの時期が芸術舞踊と娯楽舞踊の距離が遠くなかった時期という点を考慮しながら、すでに高い人気を享受していた宝塚少女歌劇団と今まさにスター舞踊家に浮上した崔承喜が互いにどのように交流し、影響を与えたのかも調べることになるだろう。
それと共に関西2次公演では崔承喜の朝鮮舞踊公演がこの地域に密集居住していた在日朝鮮人たちにどのように受け入れたのかも調べることになるだろう。 (jc, 2025/1/28)
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