崔承喜の東京デビュー公演の2部、 2部に含まれた5作品がすべて朝鮮舞踊だった。 その中で最初に発表した<霊山の舞>に対するプログラムの叙述は次の通りである。
8. 靈山の舞, 朝鮮古典, 甲斐富士子, 金敏子, 加土惠美子
俗塵を遠く離れた幻想の靈山で相連れて舞ふ氣高い麗人たち。朝鮮古典說にヒントを得たもの。
3人舞「霊山の舞」の伴奏音楽が朝鮮古典だと明示されたが、これは「霊山会相」だった。 『霊山会相』は朝鮮初期から広く演奏されていた仏教音楽である。 タイトルを解釈すると「神霊な山で集まった姿」という意味だが、「神霊な山」とは仏教の霊鷲山を指す。
仏経「大梵天王問佛決疑經」によると、仏が説法している間に言葉を絶って蓮の花を持ち上げてみると、他の人々は戸惑ったが、弟子の迦葉がその意味を理解してにっこり笑ったという。 坫華示衆または拈華微笑の故事の発祥地がまさにこの霊鷲山だ。
迦葉が理解した仏様の説法は「蓮の花は泥の中で育って咲くが、葉も花も汚されず清浄さをそのまま維持する。 人の心ももともと清浄で、蓮の花のようにたとえ悪い環境の中に置かれていても、その本性は決して汚されない」ということだったと伝えられている。
徐命膺(1716-1787)が世祖の時の音楽を集めて編纂した楽譜集「大楽後補(1759)」第6巻によると、声楽曲だった時代の「霊山会相」の歌詞は「霊山会相仏菩薩」の7文字だったことが明らかになった。 成宗の時に発刊された『楽学軌範(1493)』第5巻には、處容舞のBGMとして「霊山会相」が使われた事実が記録されている。
しかし、李圭景(イ·ギュギョン)の『歐邏鐵絲琴子譜)』と徐有渠(ソ·ユグ)の『遊藝志』によると、『霊山回想』は歌詞を失い、元の曲である(1)上霊山に続いて、(2)中霊山と(3)細霊山、(4)カラクダリ、(5)三鉉ドドゥリ、(6)下鉉ドドゥリ、(7)念佛ドドリ、(8)打令, (9)軍樂が付け加えられたと記録がある。 その後、(10)界面カラクドドリ、(11)兩淸、(12)羽調カラクドドリが付けられ、今日の<霊山会相>は12曲が相次いで演奏される組曲になった。
崔承喜の「霊山の舞」の伴奏音楽はこの中で「上霊山」である可能性が高い。 この曲が「霊山会相」の元祖でもあり、全体の主メロディーだからだ。 『上霊山』も演奏時間が10分以上であるため、全曲を使うことはできず、主題メロディーを中心に編曲されたのだろう。
また、<上霊山>の演奏には弦楽器の琴と伽倻琴、揚琴を中心に管楽器の細ピリ、大笒(テグム)、短簫と打楽器の長鼓(チャング)が使われるのが普通だ。 崔承喜の東京デビュー公演ではピアノとバイオリン以外にはチャングが使われただけなので、BGMは洋楽に編曲されたり、あるいは蓄音機を使った可能性もある。
崔承喜の東京デビュー公演が<霊山の舞>の日本初演だったが、全体初演は1930年2月1日京城公会堂で開かれた<第1回舞踊発表会>だった。
デビュー公演後、「霊山の舞」に対する反応はあまり良くなかった。 すでに突風を巻き起こした『エヘヤ·ノアラ』と、新たに関心を集めた『僧の舞』と『剣の舞』に押され、『霊山の舞』は批評の対象にもならなかった。
「霊山の舞」が好評を得られなかったのは朝鮮公演でも同じだった。 新聞や雑誌に報道された評論は「印度人の悲哀」と「愛の踊り」、「オリエンタル」と「マズルカ」などの現代舞踊に対する感想や評論があったが、「霊山の舞」について言及した文は一編もなかった。 その後、崔承喜は1933年3月に日本に渡るまで「霊山の舞」を朝鮮で再び公演しなかった。
「霊山の舞」が朝鮮からそっぽを向かれた理由は何だろうか? これは崔承喜の朝鮮舞踊が朝鮮の観客に十分な訴える力を持たなかったためだろう。 彼女が日本留学を通じて磨いたのは西洋式の近代舞踊だったからだ。 たとえ素材と衣装を朝鮮の伝統から探すことはできたが、それが朝鮮舞踊作品として十分に整えられていない可能性が高い。
あるいは「霊山の舞」に崔承喜が直接出演せず、彼女の弟子2-3人が出演したのもこの作品が広く知られたり好評を得られなかった原因だった可能性がある。 1930年2月1日「霊山の舞」が京城公会堂で朝鮮初演された時には趙英愛と盧甲順によって発表され、1934年9月20日東京日本青年館で日本初演された時にも甲斐富士子、金敏子、加土惠美子によって公演された。
崔承喜の舞踊公演、特に彼女の初期公演ではすべての視線が崔承喜本人に集中したので、彼女が直接出演しなかった作品には世間の関心が少なくなるしかなかっただろう。(jc, 2024/8/23)