[崔承喜1931筏橋公演] 21. 靈山舞
日本語文献には崔承喜の初の朝鮮舞踊作品として「エヘヤ·ノアラ」を挙げている。 日本の女性誌「令女界」が主催した近代女流舞踊大会(1933年5月20日)でこの作品が初めて発表されたからだ。 したがって「日本で発表された初の朝鮮舞踊が『エヘヤノアラ』」という叙述は正しい言葉だ。
しかし、この作品はすでに朝鮮で発表されていた。 京城で開かれた第3回新作公演(1931年5月1日、団成社)でのことだった。 ただ、この時のタイトルは「私たちのカリカチュア」だった。 すなわち「エヘヤ·ノアラ(1933)」は「私たちのカリカチュア(1931)」の改名、あるいは改作された作品だったのだ。

ところが、『私たちのカリカチュア』(1931)よりも早い時期に発表された朝鮮舞踊作品がある。 「靈山舞(1930)」がそれだ。 崔承喜は第1回京城公演(1930年2月1日、京城公会堂)で朝鮮の伝統音楽「霊山会相」を伴奏音楽として「霊山舞」を発表した。 この時の「靈山舞」は2重舞で、崔承喜が出演はしなかったが、一番弟子の趙英愛(チョ·ヨンエ)と盧甲順(ノ·ガプスン)が出演した。
『靈山舞』は第1回東京公演(1934年9月20日、日本青年館)でも発表されたが、この時は3人舞に改作され、崔承喜の弟子金敏子と甲斐富士子と加藤恵美子が参加した。 朝鮮舞踊『靈山舞』の上演に日本人舞踊家が参加したのが目につく。
「靈山舞」は東京第2回公演(1935年10月22日、日比谷公会堂)でも上演されたが、この時は「3つのコリアンメロディー」というタイトルだった。 この作品を構成した3つの作品として「民謡調」、「晋陽調」とともに「霊山調」が含まれた。 「靈山舞」は1936年以降、「聖山調」または「聖山舞」というタイトルで上演された。 このように崔承喜の代表作の一つに挙げられるようになった<霊山舞>は筏橋公演でも上演された可能性が高い。

「霊山舞」の伴奏音楽は仏教音楽「靈山會相」である。 「霊山会相」は「神霊な山に集まった相」という意味だが、この「神霊な山」とは靈鷲山を指す。
仏経<大梵天王問佛決疑經>には、坫華示衆または拈華微笑の故事が記録されている。 佛陀が説法中に言葉を切って蓮の花を持ち上げて見せると、皆が戸惑ったが、弟子の迦葉がその意味を理解してにっこり笑ったという。
迦葉が理解した仏の説法は「蓮の花は泥の中で育つが、葉も花も汚れずに清浄さを維持する。 人の心ももともと清浄で悪い環境の中に置かれていても、その本性は汚れない」ということだった。 この説法が施された場所が靈鷲山である。
朝鮮の徐命膺(1716-1787)が世祖時代の音楽を集めて編纂した楽譜集「大樂後譜(1759)」第6巻によると、声楽曲「霊山会相」の歌詞は「靈山会相仏菩薩」の7文字であったことが明らかになった。 成宗の時に発刊された『楽学軌範(1493)』第5巻によると、『處容舞』のBGMとして『靈山會相』が使われていた事実が記録されている。

しかし、李圭景の「歐邏鐵絲琴子譜」と徐有渠の「遊藝志」によると、「靈山會相」は歌詞を失い、本来の曲である(1)「上霊山」に続き、(2)「中霊山」と(3)「細靈山」、(4)「加樂ダリー」、(5)「三絃ドドゥリー」、(6)「下絃ドドゥリー」、(7)「念仏ドドゥリー」,(8)「打令」,(9)「軍楽」が加わったと記録されている。 その後、(10)「ケミョンカラクドドゥリ」、(11)「兩淸」、(12)「ウジョカラクドドゥリ」が付けられ、今日の「霊山会相」は12曲が相次いで演奏される器樂組曲になった。
「霊山舞(1930)」の伴奏音楽としては「上霊山」だけが使われた可能性が高い。 この曲が「靈山會相」の元祖であり、全体曲のメインメロディーであるためだ。 「上霊山」だけでも演奏時間が10分を越えるため全曲を使うことができず、主題メロディーを中心に編曲されただろう。

『上霊山』はコムンゴとカヤグム(弦楽器)、ヤングム、セピリ、テグム、タンソ(管楽器)とチャング(打楽器)で演奏されるが、『霊山舞』にはこれらの楽器がすべて使いにくかったため、バイオリンとピアノのための洋楽に編曲されたり、蓄音機を使用した可能性もある。(jc, 2025/5/12)