[崔承喜1931筏橋公演] 19. 鉄のような愛
『鉄のような愛(1931)』は1931年9月1-3日の京城第4回公演で発表された崔承喜の二重舞だ。 第2部の3演目で上演されたこの作品で、崔承喜のパートナーは高弟であり金敏子だった。 この作品は崔承喜の代表的な二重舞だったため、筏橋公演でも上演されたものと推定される。
「鉄のような愛」は京城第4回公演で発表されたが、それが初演ではなかった。 それより半年前、1931年2月7日に京城公会堂で開かれた第2回京城公演でもこの作品が上演されたが、この時はタイトルが「彼らのロマンス」であり、崔承喜のパートナーは李玉熙(イ·オクヒ)であった。

この作品は1934年9月20日、日本青年館で開かれた崔承喜の東京第1回公演でも上演されたが、この時のタイトルは「希望を抱いて」、崔承喜のパートナーは石井美恵子だった。
すなわち、「彼らのロマンス(1931)」と「鉄のような愛(1931)」と「希望を抱いて(1933)」は同じ作品だが、これは女性雑誌「新女性」の1934年5月号に載せられた記事を土台に推論されたものだ。

『新女性』は『希望を抱いて』の初演が「1933年11月、東京で」と説明したが、これは正確な叙述ではない。 この作品はそれより1ヶ月前の1933年10月22日、日比谷公会堂で開かれた「石井舞踊団公演」で発表された。 この公演では石井漠の「燕尾服を着た東京」と石井英子の「スペイン夜曲」、そして崔承喜の「希望を抱いて」が初演された。 これに対して崔承喜は『私の自叙伝(1936:126)』で次のように述べている。
「この間に最初に発表したのがサラサーテの『アンダルシアン·ロマンス』を伴奏に作られたデュエット『希望を抱いて』で、…··· 石井先生の新作発表会で初めて発表し、好評を博しました"
ところが<新女性>は<希望を抱いて>が本来「1931年の作品」と叙述した。 これを確認するため、1931年に京城時代に発表された崔承喜の作品リストを調べたが、『希望を抱いて』はなかった。 別のタイトルで発表されたという意味だ。 1931年に発表された崔承喜の2人舞を全て調査したところ、1931年に開かれた3つの主要公演で上演された2人舞は8つだった。

1931年1月10-12日の団成社公演で発表された<浄土の踊り(李玉熙、張桂星)>と<彼らのロマンス(崔承喜、李玉熙)>と<南洋の情景(崔承喜、金銀波)>、5月1-3日の団成社公演で発表された<南洋の夜(崔承喜、張桂星)>と子供舞踊<これから前へ(李貞子, 趙英淑)>, そして9月1~3日の団成社公演で発表された『土人の哀史(金敏子、趙英淑)』と『鉄のような愛(崔承喜、金敏子)』と『異国の夜(李貞子、盧載信)』だった。
このうち、崔承喜が出演した2重務は<彼らのロマンス>と<南陽の情景>、<南陽の夜>と<鉄のような愛>だったが、<南陽の夜(5月)>は<南陽の情景(1月)>の改作であり、<鉄のような愛(9月)>は<彼らのロマンス(1月)>の改作だったわけだ。

1931年1月8日付の『東亜日報(5面)』に掲載された『彼らのロマンス』の写真は、崔承喜と李玉熙が貧しい恋人の愛を踊る姿を映しており、写真の説明は「彼らのロマンスは悲しくて立派だ。 たとえ逆境でロマンスを作る者であっても力強く力強く進もう」と叙述した。
すなわち、「彼らのロマンス(1931年1月)」は逆境にあっても希望を持って力強く愛を続けていくという内容だが、「鉄のような愛(1931年9月)」に改作および改名されたものと見られ、ついに日本公演では「希望を抱いて(1934)」に再び改作されたのだ。
「希望を抱いて」の伴奏音楽はサラサーテ(Pablo de Sarasate、1844-1908)の「アンダルシアのロマンス(The Andalusian Romance)」だ。 1878年、サラサーテがスカンジナビア巡回公演をしていた時に作曲され、1879年に出版されたこの作品は、スペイン南部アンダルシア地方の民謡3つの主題を配列したもので、ピアノとバイオリンで演奏され、早くて軽快な音楽だ。
<アンダルシアのロマンス>は演奏時間が5分を超えるため、<彼らのロマンス>=<鉄のような愛>=<希望を抱いて>はかなり長い作品だったと推定される。 (jc, 2025/5/10)