[崔承喜1931筏橋公演] 14. 崔承喜
崔承喜の筏橋公演を成功させるために蔡東鮮と崔承一、あるいは蔡東鮮と安漠が協議した可能性が高いが、蔡東鮮と崔承喜が直接疎通した可能性もある。
1929年9月6日、蔡東鮮はベルリン音楽留学を終えて朝鮮に戻ったが、それより2週間前の1929年8月25日、崔承喜も東京舞踊留学を終えて帰京していた。 蔡東鮮の帰国独奏会は1929年11月28日、京城公会堂で開かれたが、崔承喜の最初の舞台は1929年12月5-7日、朝鮮劇場で開かれた讚映會主催の<舞踊、劇、映画の夜>行事だった。
朝鮮劇場の行事は朴勝喜(パク·スンヒ, 1901-1964)が率いる土月會の話題作<アリラン>が上演され話題になり、ここには崔承一(1902-?)の妻石金星(ソク·クムソン, 1907-1995)もヒロインのボンヒ(봉희)役を演じて出演した。 崔承喜は「印度人の悲哀」、「黄昏」、「小夜曲」など自身初の創作舞踊作品を披露し、彼の新舞踊を知りたがっていた観客の好奇心を満足させた。
蔡東鮮の独奏会と賛英会の<舞踊、劇、映画の夜>は、暮れゆく京城の1929年を飾った2つの主要芸術行事だった。 ドイツ留学経歴のバイオリンの鬼才蔡東鮮独奏会が京城の話題になったのは当然で、崔承喜もこの演奏会を知っていただろう。 石井漠舞踊研究所時代、クラシック音楽に対する研究を並行した崔承喜は、この演奏会を観覧した可能性もある。
また<舞踊、劇、映画の夜>は京城有数の舞台芸術家たちが総出動した行事であり、押し寄せる観客の要請で2日に予定されていた公演日をもう一日増やさなければならないほど人気が高かったので、蔡東鮮もこの公演を参観したり少なくとも知ってはいただろう。
その後、蔡東鮮と崔承喜が一緒に出演した公演もあった。 1930年4月11日、京城公会堂で開かれた中央幼稚園の「新春音楽舞踊の夜」イベントだった。 1930年4月1日付<朝鮮日報(5面)>によると、中央幼稚園は「朝鮮で最も長い歴史を持ち、数多くの児童を保育してきた」幼稚園であり、「経費の困難」を経験するこの幼稚園を後援するために芸術家たちが公演を組織した。
この公演では崔承喜が舞踊部門を担当する一方、音楽部門にはピアノの金永煥(キム·ヨンファン, 1893-1978)、声楽家の安基永(アン·ギヨン,1900-1980)と玄濟明(ヒョン·ジェミョン、1903-1960)などと共にバイオリンの蔡東鮮が参加した。 すなわち、崔承喜の筏橋舞踊公演がある1年半前に蔡東鮮と崔承喜は同じ演奏会に参加しながら面識を身につけ、お互いの作品に接することができた。
また、金永煥は淑明女学校時代に崔承喜の音楽教師であり、安基永は培材学堂出身で崔承一と同窓であり、延喜専門学校在学時代に金永煥の弟子だっただけでなく、米国留学を終えて1928年に帰国した後には梨花女専の教授に任用され蔡東鮮と共に勤めていた。
彼らの初期の近代音楽家たちの名声は、当代でも高かった。 文芸誌「東光」は1931年6月号(通巻22号)で「金永煥氏はピアニストとして我が楽団の道を開いた人」とし「高宗皇帝の誕生日御宴が石造殿で開かれた時、御前演奏をして金一封3千圓を受け取った」経験があり、「芸術家が刀を蹴ることができない」とし総督府学務局勤務を拒絶」した度胸のある音楽家だと叙述した。
また「安基永さんは.. 楽団の驚異」とし「作曲家としても有望な彼の『作曲集1集』と『2集』、そして『朝鮮民謡集』などは··· 先進国の楽団に出しても少しも恥ずかしくない」と評した。 玄濟明氏は「テナーよりバリトンに近い」というが「安基永氏のように楽団の双璧」と称えた。
続いて記事は、蔡東鮮さんは「朝鮮の中にいるバイオリニストとしては技術でも芸術でも第一に挙げるべき人」と紹介し、同じバイオリニストであり蔡東鮮を教えたことがあった洪蘭坡を「常識以下の幼稚な理論」を持った人と卑下したのとは対照的な評価を下した。
崔承喜がこのように10年年上の音楽家たちと一緒に公演できたのは、彼が舞踊という新芸術を開拓していたためだろう。 この機会を通じて崔承喜は蔡東鮮と直接芸術的な交わりを持つようになったので、一年半後に蔡東鮮から筏橋公演の提案を直接受けた可能性も排除できない。 (jc, 2022/5/25)