최승희1931벌교

[崔承喜1931筏橋公演] 11. 蔡東鮮

조정희 2025. 5. 13. 20:28

筏橋劇場設立者蔡重鉉調査していたところ音楽家蔡東鮮(蔡東鮮1901-1953)父親であることがらかになった1922114東亜日報3)』記事がこれを確認してくれた

 

記事によると宝城警察署筏橋駐在所めていた元巡査鄭宗錫(チョン·ジョンソク当時24先月=1027日午前9ごろ全羅南道宝城郡筏橋面蔡重鉉長男蔡東鮮名前蔡重鉉息子病気重篤なので30だけってくれという偽造電報って30詐欺してべたことが発覚という報道だった

 

 

鄭宗錫筏橋勤務当時容疑者無差別暴行女性にして悪口老人死亡させた悪質巡査だっただけでなく解任された生計途絶四面浮浪しながらりながら同族した反民族的低質人生だったが犯罪行為のおかげで蔡重鉉蔡東鮮父子関係当時文献確認できたことは逆説的

 

蔡重鉉1930<筏橋劇場>設立した蔡東鮮はドイツ留学えて帰国してから1ぶりだった蔡重鉉息子故郷演奏会くことができる空間用意したかったのだろう

 

父親財力とともに自分さと芸術的才能土台蔡東鮮1915年順天公立普通学校卒業するやいなや京城留学京城第1高等普通学校(=京畿高等学校)入学3年生だった1918年洪蘭坡(ホン·ナンパ)からバイオリンをんだ4年生だった1919万歳運動加担して投獄されたが父親財力出獄京城第1高等学校中退日本留学についた

 

 

1920早稲田大学入学したが父親反対音楽わりに英文学専攻した1924年早稲田大学卒業後山田耕莋1886-1965指揮する日本交響楽団入団日本各地巡回する演奏旅行参加した以後英文学経済学勉強する計画でしばらく米国生活をしたがバイオリン専攻めてドイツベルリンのシュテルン音楽学校入学バイオリンと作曲勉強したドイツ留学当時蔡東鮮はリヒャルト·ハルチェ(Richard Harchet)からバイオリンヴィルヘルム·クラテ(Wilhelm Klatte)から作曲んだ

 

19299にドイツから帰国した蔡東鮮梨花女子専門学校教授として在職1939まで4にわたる個人独奏会多数作品発表会1932には作曲発表会1937には歌曲集出版1939東亜日報社主催した1回全朝鮮唱作曲発表大音楽祭ヴァイオリン幻想曲短調発表するなど活発音楽活動展開した

 

 

はまた当時朝鮮洋楽家たちがあまり関心たなかった民謡採集編曲情熱韓国伝統音楽発掘きな影響ぼしたりもした

 

しかし日帝満州侵略(1931)中国侵略(1937)敢行軍国主義猛威るうようになると朝鮮音楽家たちが大挙內鮮一致皇国臣民化動員されたが蔡東鮮日帝賦役拒否するために音楽活動一切中断水踰里2万坪余りの土地高等野菜観賞苗木栽培することに没頭した

 

 

蔡東善抗日行動朝鮮人音楽家たちと対立こした洪蘭坡安益泰をはじめとする大部分音楽家たちが親日行為先頭っていたが蔡東鮮親日賦役参加することを拒否したためだった蔡東善親日音楽だけでなく創氏改名朝鮮語禁止政策にも抵抗した

 

京城時代蔡東鮮居住していた城北洞家屋表札有名なエピソードだ当時すべての家屋日本式表札けるよう強要されたが蔡東鮮表札住所18317明示、「というたった一文字でも朝鮮語表記したのだ

 

 

解放後受難いた米軍政下親日附逆音楽家たちが勢力ばし蔡東鮮民族音楽活動妨害したためだ京畿女子高校音楽教師ソウル大商科大学淑明女子大でドイツ語教授として在職したが1950韓国戦争勃発するや釜山避難肉体労働とタバコをって生計維持していたところ195322日急性腹膜炎死亡した(jc, 2025/3/31)